華岡青洲の妻 2000..15 徳島新聞 

 

 

 嫁と姑の関係を表現することわざは昔から多かった。「姑無ければ村姑」というのは、結婚した相手に母親や妹がいなくてホッと?していたら村中の者が陰口や世話焼きの面で姑がわりになるという意味だ。

 

「嫁は姑に似る」や「姑の仇を嫁で討つ」というのもある。昔のうらみを嫁ではらすということだ。これなんか軍隊での新兵いじめや、あの県警での体毛焼き事件などと陰湿さでは同質だろう。でもイビリも過ぎたら、そのうち若夫婦に邪魔者扱いされる「姑の場ふさがり」になりかねない。

 

 「秋茄子は嫁に食わすな」なんていうのは、ワープロでも一発変換されるほどポピュラーだ。こんなに美味な物は憎い嫁には惜しいというのが一般的だが、逆に、身体が冷えるからと嫁の身を案じる優しい姑の気持ちをも意味するのがうれしい。

 

 義母は愛する夫を産み育ててくれた人だから大事にしたいと考えたり、嫁は大事な息子が選んだ人だからかわいいと感じたりして、実の母娘以上に仲の良い嫁姑関係が私のまわりに多いのもうれしいことだ。円満のキーワードは、互いの優しさ、親離れ・子離れ、個々の自立心だと思う。

 

 嫁いびりは小説や映画では『華岡青洲の妻』が有名だ。人気作家だった有吉佐和子さんの傑作である。舞台では、徳島でも昨年の松竹バージョンに続いて今年は文学座版が上演される。

 

 華岡青洲は、世界で初めて全身麻酔による乳がん手術を成功させた紀州の名医。成功の陰には、献身ぶりを競い合う嫁と姑との確執があった。麻酔薬の人体実験で失明する嫁が「お母はんに勝った」と笑みを浮かべるラストは、28年も前の舞台だが強烈に印象に残っている。

 

 繰り返し上演されてきたのは普遍的なテーマであることと、杉村春子さんの名演技があったからだ。彼女の芸の力のすごさゆえに、私ならずとも「華岡青洲の母」を見てきた感が強い。

 

 それが今度は、江守徹さんの演出によりスタッフ・キャストを一新、極めて新鮮で見事な舞台になった。「嫁姑の闘い」から、そのすさまじさにこりて結婚を決断できなかった妹、優柔不断を決め込む兄に男のズルさを見抜く妹などの、現代に通じる「男社会を支えた四人の女の物語」になったと、各紙劇評にはある。

 

来月の阿南や鳴門、徳島市文化センターでの杉村春子追悼公演に、「嫁姑」や男たちに足を運んでほしい。雨なら相合傘で…。 実際より麗しく見えることを「夜目遠目」というが、この場合は「よめしゅうとめ」傘の内というのかも。

 

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