グッバイ・チャーリー 2000.1.29 徳島新聞

 

 

 私がキリストの生まれ変わりだとは、お釈迦様でも気がつくめ〜。新興宗教によくあるのが、こういった釈迦やキリストの「生まれ変わり」を自称するケースだ。たいてい「世界偉人伝」に載っているような名が挙がる。大泥棒や殺人鬼、偏執狂などからの転生だと主張する者はまずいない。

 

世間一般でも「生まれ変わり」を信じる人がけっこう多い。でも私は信じない。ありえないと思っている。死んだらジ・エンドで例えば夢を見ないで眠っているのと同じだと思う。感情や意識を生み出す脳細胞が死ぬのだから、痛くも痒くも、心地よくも楽しくもないはず。

 

死者を冒涜する気持ちはみじんも無いが、実際その身体は炭水化物やたんぱく質、水分、脂肪などの固まりにすぎないのだ。

 

DNAによって風貌や性格の一部は子々孫々まで受け継がれるが、「その人」自身はもう雲散霧消。地中や空中に散乱した素粒子が再び終結することはない。

 

だから、悔いある人生ゆえの「生まれ変わり願望」は理解できても、ありうべくもないことなのだ。どう生きるか、どう生きたかが大切だと、つくずく思う。

 

このありえない「生まれ変わり」も映画や芝居では古今東西の面白いテーマだ。夢があって楽しい作品が多い。そんな舞台を一つ紹介しよう。

 

あるプレイボーイが人妻と浮気中に、その亭主に殺されるが、神様の思し召しで生まれ変わる。雷鳴とともにこつ然と現れるのはなんと、男から女に転生した美女。女の身体に慣れていないので、ハイヒールもぎこちない。しかし「彼」は、徐々に身も心も女性らしくなって…。

 

遊びでなく真面目で真剣な愛を知るハッピー・エンド。美しくて爽やかな一級の娯楽作品だ。完全に生まれ変わり元の自分と訣別するので、題名が『グッバイ・チャーリー』。来月早々(‘00.2)、阿南・鳴門・徳島の三市で上演される。

 

ヒロイン?に扮するのが、芸達者なピーターこと池畑慎之介。本邦初演では越地吹雪が演じたそうな。男女二役だから誰でもはできない舞台だ。彼は、地唄舞の名手で人間国宝にもなった吉村雄輝の長男。歌手デビューの「夜と朝の間に」は懐かしの大ヒット曲である。

 

その後もミュージカルやディナーショー、新劇、新派、狂言からお笑いまで、八面六臂の大活躍。今回の舞台も注目される。生まれ変わりのあるなしはさておいて、気軽な一夜のお楽しみといきますか。

 

ところで、それができるなら私はやはり自分に生まれ変わりたい。建設大臣にはなりたくない。

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(この落ちは、吉野川・可動堰問題で今の国交省が推進派だったこと、僕が昔建設省に勤めていたことからでした)

 

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