アンネの日記2003.3.13 徳島新聞夕刊
13、4才のころ、近所の大きく高い木に悪童数名で「巣」を造った。大工仕事?の得意な奴がいて、二畳ほどのけっこう頑丈な「隠れ家」であった。子どもはみんな穴ぐらやテントに入るのが好きなのだ。それは今でも、とっておきの思い出になっている。遊びつかれた放課後や雨の日曜には、そこでカルタや漫画に耽ったものだ。
同じ年頃の「隠れ家」体験といっても、アンネのそれは、生死を分かつ極限状況下…。アンネ・フランク、このハリー・ポッターよりも有名であるべき少女の日記は、収容所から生還した父の手で終戦二年後に出版されるや、たちまち全世界にセンセーションを巻き起こした。それをいち早く舞台化したのが劇団民芸だった。
その舞台は、1956年の初演以来、実に1400ステージを越える再演を繰り返してきた。私も10代と30代の二度観劇した。若く無知だった私にとってこの作品は、学校で殆ど教わらなかった近現代史への関心と学習意欲をかきたてた。そして、ヒトラー・ナチスによる600万人ものユダヤ人虐殺という衝撃と、わが祖国が独伊両国と共に人類への大罪を犯したことへの恥辱感をもたらせた。過去とはいえ、そんなに遠い昔のことでないだけに、よけい許せない気持ちを強く抱いたのだった。
時過ぎて50代半ば…。あの名舞台に三たびあえる。来月の文化センター客席で、私は改めて自身の来し方と行く末を見つめなおすことになるだろう。
小中学生の時には、ちょっと生意気でそこそこ意地悪な、あんまり好きではなかったアンネが、年の離れた姉くらいだと知って親近感を抱いたものだ。考えてみると彼女のように、ジャーナリストや作家などさまざまな「なりたかった夢」を抱えたまま、戦争の巻き添えで消えていった子供たちは無数にいるのだ。世界中の子供たちが死の恐怖も自由への渇望も無く、存分に「隠れ家遊び」ができる日が来ることを願いつつ、この感動作を、新たな戦争が迫っている今こそ広くお薦めしたい。
話題も豊富だ。初演時から主役の若い二人は、劇団内と一般公募のオーディション。吉行和子も樫山文枝も、今度は母親役の日色ともゑもアンネ役という登竜門をくぐった。アンネと同年という奈良岡朋子、ベテラン・伊藤孝雄などが父親や同居人として脇を固め、期待感をいや増している。
個人的には、今回は「支援者の勇気と正義」にも思いを馳せつつ、アンネの言葉を厳粛に受け止めたい。「わたし信じているの。人の心は絶対にすばらしいのだと」。