桜散る春

 

  春を歩くなら、桜吹雪のその下で。その一片一片が、春に別れを告げるように散り急ぐ。

 それを潔しと生きた人が、ここに眠っていると。

 昔、誰かの小説に、人の屍を吸いとるから桜の花はあれほどに

 見事に花を咲かせるって読んだ事がある。

 とりわけ見事な夜桜は、時折人を狂気に迎えいれる。 

 

  今年の桜も、綺麗だった。淡いピンクが薄墨色の空に栄えて。

 この時期になると、いつも思い出す人がいる。

 あまりに、ひたむきに愛に殉じた生き方をしたたった一人の恋人を。

  ──桜の花が綺麗なのは、その下に眠る生き様を映すからよ──

 窓から入ってくる、桜の花びらを集めながら彼女が笑う。

 今にも空気に透けていきそうな質量感を漂わせて。

 青白い細い腕が、空中を舞う桜を掴もうと空を切る。

 四月の夜風はまだ少し肌寒く、小さな咳を一つ呼んだ。

 「窓を閉めても、桜は見えるだろう」

 「ごめんなさい、今日は身体が楽だったから」

 「解っているよ、少し顔色がいいからね」

 一度も陽に焼けた事のない彼女の肌は、青白く一目で病弱だと

 云う事がよく解った。今日は、うっすらと頬に赤みが浮かんでいた。

 「何か、楽しい事でもあったのかい?」

 「喜んで、お医者様が今度旅行に出掛けてもいいと許可をくれたの」

 「本当かい?」「もちろんよ、私が今まで文句一つ言わずに検査を

 受けてきたご褒美ですって、学校の旅行ですら許してくれなかったのによ」

  嬉しそうに、僕に大切に抱えていた秘密を見せるように話す。

 さっき、主治医から聞いた話が、僕の心をよぎった。

 ──「それじゃ、もう?」「最後だと思ってください」──

  今度の退院が、彼女に残された最後の時間になる事を僕は知っていた。

 「聞いてるの、禎彰さん、もちろん一緒に行くのはあなたよ。

 約束してた海に連れていってね」

 「海か、僕の故郷の海に行くかい?」

 「遠いの?」「飛行機で1時間、それから電車でちょっとのところかな。」

 「すご〜い、遠いところに行くみたいで、楽しそう」

 僕の婚約者のはるかは、今年19歳になったばかりだった。

 小さい頃から心臓が弱くて、彼女の家庭教師をしていた僕は

 休みの日はずっと彼女のそばにいて過ごした。

 病気がちで学校に出ても、すぐ病院との往復の日々。見ているのがつらかった。

 大学に行きながら彼女の父親の仕事を手伝い始めた僕は、

 卒業と同時に、秘書を務める事になった。

 小さな出版社ではあるが、いい本を作ると定評のある所だった。

 彼女と僕は7歳違いで妹のように僕は接していた。

 彼女の父親から、婚約の話を持ちだされた時も、何の不足もないまま承諾した。

 僕なりに彼女を愛していたと思う。彼女の父親なりに、病弱な娘を

 心配しての配慮だったのだろう。

 まだ19歳で、恋も知らずにこの世を去るには忍びないと。

 僕は、知っていたんだ、はるか、君の命がもう残り少ない事を。

  せめて、残り少ない日々を悔いのないように過ごさしてやりたかった。

 それを傲慢と呼ばれる物なのかもしれなかった。

 作られた鳥篭の中でしか、生きられない鳥のような存在なのかもしれないはるか。

  

  海を見ながら、君は波打ち際にしゃがみこむ。

 白い砂浜が珍しいのか何度も、手にすくってはこぼれ落ちるのを

 眺めている。小さな桜貝を拾って掌に乗せてきた。その無邪気な笑顔に、つられて僕も笑う。

 遠く水平線を、白い汽船が通るのを珍しいのかジッと見ていた。

  「あの船は、どこまで行くのかしら?」

  「世界中だよ、海は世界と繋がっているから」

  「私も、何処かに行けるのかしら」

  「何処へでも連れて行ってやるよ」

  「本当に?」「あぁ」「その日まで、私生きているのかしら」

  小さな声でつぶやいたから、殆ど聞き取れなかった。

  聞き返そうと言葉を選んでいる間に、彼女は打ち寄せる波に爪先をひたしてはしゃぎはじめた。

  「ねぇ」「んっ?」「今日の記念にキスして」

  照れて笑った僕は、そっと頬にふれるキスを一つ。

  不意に、首に手がまわりそっと唇に振れるキスを一つ。

 「もう、帰りましょう。寒くなってきちゃった」

 「そうだね。予約してあるホテルがこの近くだから」

 夜中に、僕の部屋のベルが鳴った。

 ドアを開けると、泣き腫らした顔のはるかが立っていた。

 ホットミルクを温めてやると、 

 「ごめんなさい。起こしちゃったね」「いや、どうしたんだい?」

 「嫌な夢を見たの。誰もいなくて一人で、怖くて走って逃げるの。

 でも誰もいないの、誰も」「大丈夫、みんないるよ」

 「聞いてもいい?」

 「何を?」「私、もう死ぬんでしょう」

 「… 何故そんな事を?」「だって、みんな優し過ぎるんだもの。

  あんなに駄目って言ってた旅行も、増えた薬の量も全部」

 「良くなってきたからに決まってるじゃないか」

 「でも…私、怖いの。このまま目覚めなんじゃないかって、

  そしたらもうあなたに会えなくなる。それが一番嫌だった」

 「はるか。落ちついて、大丈夫だよ。僕はずっとここにいるから」

 「私を一人にしない?」「約束するよ」

 静かに瞳を閉じて眠りについたはるかを見ながら、その白い顔があまりに

 哀しくて涙が止まらなくなった。こんなに、生きていたいと願う心を

 誰が閉じようと決めたのか。人の運命を決める何かを恨んだ。

 

  旅行から帰ってすぐ彼女は入院した。

 突然襲った心臓発作であっ気ないほどに命を閉じた。

 その振り向いた瞳が僕の視線に絡みつく。あの瞳が胸に焼き付いてる。

 安心したように笑って、そのまま床に崩れ落ちた。

 誰もいない世界に一人旅立った君は、もう誰にも束縛されないと笑う。

 僕の心の中に、君と云う空洞が出来た。

 誰にも埋められない、誰も入れない君だけの居場所に君は住む。

 夜桜が狂ったように散り始める。君の死を嘆くように。

 桜の花に埋もれて眠れば、君に会える夢を見る。

 君は、僕の心まで連れて…。桜は君を思って泣く僕の上に降り積もる。


 

 

 

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