ほしのおうじ

 
  「ほ〜しの」 

  私は、彼をそう呼んでた。 童話にひっかけて(王子)と呼ぶ友達もいたけど。

 だけど、私は彼を苗字で呼ぶのが好きだったから、彼の下の名前は知らなかった。

聞こうともしなかったのは、そんな事には興味がなかったからなんだと思う。

彼はほしの君なんだから、それ以上でもそれ以下でもなかった。

時々、呼び出して話をする時の、居心地の良すぎるくらい彼との距離感が好きだったから。

彼も私を苗字でさん付けで呼んだ、その呼び方には違和感がなくてその響きが好きだった。

何かを忘れているような気がする時、私は彼の携帯を鳴らした。

時には、彼のアルバイト先に不意に顔を出す時もあった。  



 振り返って思い出すと、あの頃の私はまるで猫みたいだったなって  

自分でもおかしくて小さく笑ってしまえるくらい、純粋な気持ちで彼に会いに出かけてた。

初めて、会ったときに見せた子犬みたいな笑い方が妙に気に入ったのと、 細くて長い指と、

あったかい陽だまりのような後姿が好きだった理由なのかもしれない。



 恋愛感情はなかったから、これは恋ではないけれど思い出すと、  

嬉しくなるようなそんな不思議な時間をほんの少しだけ共有してた。  

彼も同じような感覚で私からの呼び出しを断る事もなく、受け入れていたんだと信じてる。  

彼が大学を卒業するまでの最後の半年に、私のアルバイト先で彼を見つけた。

背が高いのに、後ろをついて来る姿が子犬みたいだったから

(見つけた)と言う表現はあってるんだと、文法の間違いを私は訂正しない。



 アルバイトの邪魔をなるべくしないように、そっと足を忍ばせて彼の範囲内に入る。

気配を消して近づくのは私の得意技でもあったから。

気付くまで、しばらくは棚の商品を手に取ってお客さんのふりをしていた。

 振り返った後の、一瞬の途惑いの次に見せるくしゃくしゃと目元にしわを寄せた子犬みたいな笑顔を私は待っていた。

「明日、飲みに行こう」

「いいですよ、どうせ暇してるから」

「だと思ったから、相手してあげる」

「はいはい、わかりました」  

彼は私に少し敬語交じりの言葉で話しかける。県外からの学生だという事は、

その後で話をして解ったけれど。対した話をした記憶は残っていない。

 いつも、軽くお酒が入ってたからと言うのも理由の一つ。

2人の読んだ好きな本の話と、彼の大学の朗読倶楽部と言う部活動の話を聞くのが私は好きだった。



「夏の夜に、月が出始めるとビールを片手にみんなと詩を朗読し始めるんですよ」


自分の頭の中に、私もその場面を想像してその時間を共有したような気分になってみた。

夕闇が、漆黒へと変わっていく中、1人ずつ好きな詩を暗唱し始める。  

煙草をくゆらせながら、ビールを少しずつ飲みながら足を崩して、喋り始める。

彼のお気に入りだと言うまるで隠れ家の様に存在してる居酒屋に連れて行ってくれた。

昔馴染みのような表情をみせる堅気なおじさんが開いてる小さな居酒屋だった。

2階は、畳敷きになってて1階がカウンターになっていた。味の良さは、私も噂では知っていた。

そんな風に何度も意味もない、言葉遊びのような会話を私達は会うたびに楽しんでいた。



「海に行こうよ、ほしの」

いつものように、携帯で約束をして隣町の海岸に2人で出掛けた。

ただ、海が見たかっただけで呼び出した私をを怒りもせずに連れてきてくれた。

 防波堤が階段になっていたから、そこに座って波音だけを聞いていた。

冷たい石の感触が、秋に近づきかけた風の涼しさと重なって気持ちよく感じれた。

私は何もしゃべらずに、真っ暗な波をずっと見ながら心の中で

(花火持ってくればよかったな)と言葉にはしなかったけど、ふと思った。

「海はいいな」

「うん」

交わした言葉はそれだけだった。じっと、うずくまって波音を聞き飽きるのをずっと待っていてくれたほしの君。

「もう帰ろうか」

やっと、私が立ち上がると後ろを付いてくる優しい気配を背中に感じてた。  



男の癖に少女漫画が好きで、すぐ泣きそうに見える脆さを持ってたほしの君。

幸せになってくれているといいな。やっと今言えるから。



「ありがとう、星野王子君」

   

 

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