Pianist in the next room



 

 隣に、人が越してきたのは知っていた。手入れのされてあるのがよくわかる

ピアノを引越し業者の人が運んでいるのが見えたから。

大家さんの善意のみで成りたっているような古いアパート。

住んでいるのは、少し耳の遠い優しい大家のおばあさんと私だけだったから、

隣人と呼べるのは隣の空き部屋だけだった。



時折聞こえてくる、隣の部屋の住人のピアノの音。

その音に、私はある種の共感を覚えていた。

 

ある日、初めて彼の姿を見た。男の人だったんだ、と驚いてしまったけれど。

それ位、彼の弾くピアノは優しかったのだから。

階段を駆け下りていく彼の腕から、滑り落ちた一枚の楽譜。

拾いあげたのは私。

「ありがとう」

「ピアノ弾いてる方? 」



 にこっと、頬に小さなえくぼを浮かべ会釈を小さくして、

急いでるのか、駆け下りて行きながら、肩越しに「隣ですよ」と一言。

あの不思議な音色を創りだしている隣人を初めて見かけた土曜の朝。

その瞬間、私はその音色にだけでなく、その指の持ち主に恋をしてしまったのに気づいた。  



 彼の指が鍵盤の上を走っていく

叩くように、怒ったように、何かに訴えるように

彼の音を聴いていると、その日の彼の感情が現れてるのが解る。

 私は、昔からピアノの音が一番好きだった。

泣きたい夜に肩を抱いてくれるような、

雨のように包み込んでくれる、そんな音が好き。



今夜の彼は、優しく人の肩を抱きしめてくれるような音色を奏でていた。

突然、ピアノの音が止みドアをノックする音が響いた。

不意に時計に目をやる。まだ時計は9時を示している。

 「はい? 」

 「すみません、引越しの挨拶もすんでないのに今気づきました」

 ドア越しに少し照れたような表情で立っている彼。

手には、1枚のCDアルバムを持って。





その夜から、私の部屋の棚に新しいクラシックCDが1枚ずつ増えて…。   



 

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