差別裁判うちくだこう
1.西から東に 無実を叫び
  荊冠旗のもと 我らは進む
  差別裁判 うちくだこう
  差別裁判 うちくだこう

2.狭山差別の 裁判を
  断固我らは 闘わん
  石川青年 とりもどそう
  石川青年 とりもどそう

3.我が行動隊 無実を叫び
  三百万の 兄弟と
  差別裁判 うちくだこう
  差別裁判 うちくだこう

           作詞・作曲 作田 晃
      【MIDIデータ作成】  Iwakichsky
狭山メルマガ 「狭山の風」 vol.42 から
◇ご参考までに、「差別裁判うちくだこう」が生まれた経緯について
『すべての力をひとつに アンソロジー狭山事件30年』(解放出版社)
≪狭山歌 「差別裁判うちくだこう」 生まれる≫より抜粋
『差別裁判うちくだこう』ができたのは、1970年。この年の5月から一ヶ月とりくまれた 「部落解放国民大行動」 の行動隊のなかからこの歌は生まれ、各地にひろまっていったのである。
作田晃。広島県連から行動隊に参加。『差別裁判うちくだこう』 を生みだした張本人である。
作田さんは尾道の被差別部落に生まれた。「悪をとおりすぎとった」 十代から二十代のはじめ、少年院や刑務所での生活もあった。そんな作田さんを解放運動にひっぱったのが、作田さんが敬愛をこめて 「おっさん」 とよぶ泉谷徳一支部長。(中略)
おっさんのそばであて名書きをしたりして手伝っているうちに、おまえ行ってこいとポンとほうりだされたのが、70年の行動隊だった。(中略)
埼玉での結団式をおえ、いったん広島にもどった作田さんの頭には、狭山の歌をつくる、そのことしかなかった。どう手をつけていいかわからないまま、作田さんが詩をつくり、因島の教師が曲をつけてくれた。それをもって、行動隊の出発点である福岡へむかった。
が、曲は不評だった。(中略)
その晩、中野博喜さん (徳島出身) と二人で、廊下に出て曲をつくりなおした。作田さんがメロディーを口ずさむ、中野さんがアコーディオンを弾き、音符を書く。徹夜だった。
四国隊 (井本武美副隊長) は、新しい曲の完成をまたずに出発。岡山で合流したとき、四国隊は面くらった。自分たちが歌ってきたメロディーとは、まったくちがうものになっていたのだから。(中略)
歌が広まるのは早かった。中野さんが採譜してくれたおかげで、楽譜と歌詞は行動隊より先に、目的地にとどいていた。(中略)
わかりやすいことばとかんたんなメロディー。そのなかにこめられている狭山差別裁判への激しいいかりとあふれる闘志。石川一雄は作田晃自身であり、部落民三百万の姿でもあった。
(以上、95ページ~101ページより抜粋)