求聞持法について (高野山時報より) 浅井覚超著
四、『三教指帰』序
次に、大師が虚空蔵菩薩求聞持法を修練したことを述べる『三教指帰』序の文について若干私見を述べてみたい。大師は『三教指帰』の中で求聞持法の授者を伝承で言う如く、勤操大徳の名を記していない。
「ここにひとりの沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を示す」とあるのみである。凡そ勤操大徳より法を授かったとしても戯曲風の著作にその名をずばりと書くのは文字の手法ではなかった。尊い導師であるが故に敢えて「ひとりの沙門」と礼儀を払ったものと思われる。同じく『三教指帰』序に、「阿国大滝獄に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す」と書かれている。大師の文学表現の手法として「谷響(たにひびき)惜しまず」の箇所は明らかに二つの意味を示している。その一義は一般に読まれている如く、普通の意味に解して谷も響を惜まない(修行が空しくない)という意。二義として、谷は谷神(こくじん)を指し、谷神とは道教で眉間、即ち心眼の位置を示す。谷とは肉のもりあがっている間の意味、その谷神のところが霊光燦燦としてやまぬ(響)という内容である。このことは法友の指摘でもある。さて、阿州大滝嶽と谷の響、土州室戸崎と明星来影は対になっている。室戸崎は洞窟であり谷ではないから十分理解できる。『御遺告』に示す如く室戸崎にて明星が口に入り成就の相を示された。その前に大滝嶽にてはその前兆として眉間より燦燦と輝く霊光の相があらわれていた。実際に真言念誦に修練を積むと微細な白い霊光が眉間に発するのが薄くともはっきりと自認できる。求聞持法の場合はそれが著しい。『金剛頂経』「一切義成就品」の冒頭部分に、
即虚空界具諸願 稽首帰命諸勝願
宝中出生宝毫相 即仏毫相妙如来
と特に毫相を述べるのは単に賛美の言葉とは思われない。「明星来影す」とはむろん金星のような物質的な星が来影するのではなく、明るく輝く星の如く見える、ある当体のことである。この法の霊夢につきもpのの星よりも、もっと現実的、深遠なものである。 五、金星(明星)へ続く