六月に入れば学校の制服も衣替えするように、喫茶アルトでも制服の衣替えが行われる。
喫茶アルトの冬制服は臙脂の紳士スラックスに白いワイシャツ、臙脂の蝶ネクタイ、寒ければやっぱり臙脂のベストという形だ。しかし、玲奈一人だけ蝶ネクタイではなく、普通のネクタイを締めていた。これは美月の「蝶ネクタイは七五三みたいだから」と言う、まあ、ぶっちゃければ、彼女の趣味で決められていた物だ。
で、夏の制服は……
話戻って、五月もそろそろ終わろうかというとある土曜日の夕方少し前。午後のお茶を楽しんでた客はあらかた帰って、夕飯を食べに来る客はまだという時間帯は、従業員としても多少は息のつけるタイミングだ。
「じゃぁな、くそジャリ。ごちそうさん」
「ありがとうございました! くそジェリド!」
昼過ぎ、昼食を食べてからずーっとコーヒーを片手にスマートフォンとにらめっこをしていたジェリドこと勝岡悠介をレジから追い出す。彼はレシートを受け取ったら、振り向きもしないで軽く手を上げ、店を後にした。
「べー! 二度と来んな!」
その彼が出て行ったドアに向かって、べーっと舌を出すのが一番大事な仕事だ。念入りにやる。
「……子供みたいなことやんないの」
「子供だもん」
頭の上から振ってくるアルトの言葉には一言だけで返事をして、伶奈は辺りをくるっと見渡した。
他にいるのは年かさの大学教授らしき男性が一人、カウンターでコーヒーを片手に書類を眺めているだけ。まあ、あの人は同じくカウンターにいる和明に任せておけば良いだろう。
と、言うことで、伶奈はレジ横に置かれた丸椅子の上にちょこんと腰を下ろした。
「ふぅ……疲れた」
「あの程度で疲れたとか言わない」
安堵の吐息を漏らして伶奈がつぶやくと、頭の上から妖精が呆れ声でのお返事。直後、ふんわりと長い金髪をぶら下げた小さな頭が落ちてくる。
その小生意気な顔を自身のすだれ髪越しに見やり、彼女はまたつぶやくように言った。
「……私は子供なんだから、仕方ないんだよ」
「……よく言うわよ」
やっぱり、呆れ声なアルトがそう言うけど、その言葉は聞こえないふり。据わりの悪い丸椅子、その縁をつかんで体重をかける場所を変えてやればカタコトと椅子の脚が床を叩いて音を立てる。そんなくだらない遊びで時間を潰す。
「……暇になるとするわね、子供みたいよ」
「……子供だもん」
カタコト……暇そうに椅子の脚で床をたたき、小さな音が伶奈の周りに小さく響く。
外では国道を行き交う車のタイヤがアスファルトを噛む音。
窓の外、ふと、見上げた空には真綿のような雲が一つ。はぐれて浮かぶ雲が、気持ちよさそうに風に流されていた。
「……平和だね……」
「……退屈ね……」
伶奈がつぶやき、アルトが答える。
平和で退屈な時間がゆっくりと流れていた……
のは、五分ほどだった。
そんな二人のくつろぎの時間は、美月の一言で破られた。
「どれが良いですか?」
白いワンピース姿の美月がひょっこりとやってきたかと思うと、伶奈の目の前に一冊のカタログを突出した。そのカタログには数枚の付箋紙がしおりのように貼り付けられていて、すぐに目的のページが開けるようになっていたのが目を引いた。
「……なんの話?」
表紙を見れば服か何かのカタログのようだ。服でも買ってくれるのだろうか? と思ったが、別に誕生日でもないし、クリスマス時期でもないのに……と思いながら、ぺらっとページをめくる。一つ目の付箋紙が貼り付けられたページだ。
「ああ、この開襟シャツも可愛いんですよ〜」
開いたページを美月が覗き込み、お気楽な声を上げる。彼女が言ったとおり、そのページには開襟シャツを着た少女が写っていた。合わせているのは少し短めのチェックのスカート、モデルだけあってなかなか可愛い。次の付箋紙がつけられたところは普通の半袖シャツにネクタイ、スカートはちょっとタイト気味で背伸びした感じ。その次は半袖のブラウス、胸元をリボンが飾っていてちょっと可愛い感じ……と、いろいろな形の服が付箋紙で印をつけられていた。
「……えっと……何? この服……買ってくれるの? でも、お母さんが美月お姉ちゃんに変な物、買って貰っちゃダメだって……」
きょとんとした顔で美月を見上げれば、美月もきょとんとした顔で伶奈を見下ろし、そして、答えた。
「まあ、買ってあげると言えば買ってあげるわけですが、変な物ではなくて、制服ですよ? 六月から使う、衣替えの」
言われて、もう一度、視線をカタログに落とす。
印がつけられた服は様々な形ではあったが、どれも一様に半袖で白いシャツかブラウス。今の制服――白い長袖のシャツと入れ替えるにはちょうど良いデザインに見えた。
と、そのカタログをパタンと閉じて、伶奈は応える。
「……みんなと同じなので良いけど?」
その口調は若干不機嫌気味、二つの細い眉がへの字を書いてることは自分でも解るほど。そう言うのも、実のところ、一人だけ違うデザインの制服というのは半人前、子供扱いされているようで正直、あまり喜ばしいことではなかった。
「さっきまで散々『子供』を自称してた癖に」
なんて言葉が頭の上から聞こえてくるのはさらっと無視。
無視しつつ、美月の方へと視線を向ければ、彼女は表情を曇らせ、言葉を続けた。
「それがですねぇ……申し上げにくいのですが……」
「何?」
「……身長、いくつでした?」
「……百四十三、だけど?」
「…………二でしょ? ごまかし方がせこいわよ」
答えた言葉にアルトが頭の上から突っ込みを入れるが、それも聞こえないふりをする。もちろん、美月の方は最初から聞こえないので、問題なしだ。
その聞こえない彼女が聞こえないなりに話を続けていく。
「……普段の制服は百五十センチサイズくらいでSサイズがちょうど良いくらいなので……だぼだぼになると思うんですよね……伶奈ちゃん、身長以上に細身ですし……」
困ったようにと言うか、言いづらそうにと言うか……何とも言えない表情で美月はそう言った。
「…………」
「伶奈、顔がますます不機嫌になってるわよ」
「……うるさい、アルト、黙らないとひねるよ……」
美月には聞こえない程度、ぼそぼそっと言った言葉だったけど、頭の上にはしっかり伝わってた模様。歌うような口調で彼女は答えた。
「おー、コワ♪」
その言葉に小さく舌打ちするも、それ以上は口には出さない。代わり、と言うわけでもないが、ちらりと頭の上に視線を投げれば、見えるのはアルトの投げ出されたつま先とそれを包む木靴だけだった。
「えっと……気に病まないでもすぐに大きくなりますよ? 身長なんて」
への字になった眉の意味を理解したのか、美月が慌てたような様子でフォローをした。根が素直なのか単純なのか、美月の考えてることはすぐに顔に出る。
その美月の顔をすだれ髪越しに伶奈は見上げる。
ここで切れればさらに子供っぽいって事は伶奈自身が一番良く理解していた。
が、ここで平然とし続けられるほどに大人でもないことも伶奈が一番良く理解していた。
先ほど閉じたばかりのカタログを無造作に開き、ぺらぺらとページをめくる。めくったページが時々悲鳴を上げているが、気にせず、一気にめくって――
「これ!」
と、強く指さしたのは先ほども見たネクタイを締める形の半袖シャツだ。タイト気味なスカートと合わせているのがちょっぴり大人っぽく見える奴。
「あっ、はい、解りました。すぐに届くと思うので……そっ、それじゃ……届きましたら、合わせてみましょうね?」
伶奈が選んだページをドッグイヤーに折ると、彼女はそそくさとその場を後にした。
ぽつねん……一人、丸椅子の上に伶奈が取り残される。
「……私もいるわよ」
「……いない方が良いよ」
頭の上から振ってくる言葉にぶすーっとした表情で伶奈は応えた。
そして、また、伶奈は丸椅子の縁をつかんでカタカタ……
「止めなさいって……」
「……子供だもん……大人用のSサイズの服も着れない子供だもん……」
「焦ったところで背が伸びるわけじゃあるまいし……伸びるなら、今頃私は百九十センチよ」
「……伸びてたら、今頃、頭の上に座られなくて良かったのに……」
「あら、座るかも知れないわよ?」
「……首が折れちゃうよ」
アルトの茶目っ気ある口調に、伶奈は思わず、クスリと笑みを漏らした。
少し体重を後ろにかける。
椅子の前足を伶奈の靴の高さほど浮かべて、一気に落とす。
カタン!
少し、大きめの音。
その少し大きめの音に合いの手が入る。
から〜ん
それはドアベル、そろそろ聞き慣れ始めた乾いた音。
「あっ! いらっしゃいませ!」
慌てて立ち上がれば、トンと小さな音を立てて、丸椅子の座面が壁を叩いた。
「こんにちは」
入ってきたのは着古したジーンズ生地のツナギに、隠しきれない巨乳を無理矢理押し込んだ童顔の女性、天城夏瑞だった。伶奈とは階段を挟んでお隣に住んでるのと、引っ越してきた際にアンテナコードを貰ったのが縁で親しくしていた。
「あっ、夏瑞さん、こんにちは……」
「こんにちは。景気の悪そうな顔をしてたね? どうしたの?」
「えっ……うん。まあ……」
「また、ジェリドと喧嘩でもした? 顔を合わせる度に喧嘩してるんだから。今日はなんだったの?」
「……別にそれで不景気な顔をしてたわけでもないけど……」
「じゃあ、してないの?」
「……した」
「……なんで?」
問われて、改めて、考えて、みる。
しばしの沈黙、そして、伶奈は応える。
「…………なんだっけ?」
「……どーでも良いことだったわよ、たぶん」
「……そっ、そう……」
ぽつりと漏らした言葉にアルトも夏瑞も苦笑いで応えた。
「……ジェリドと喧嘩するのはいつものことだし、それで気分悪くしてたら、ここでバイトできないし……」
「あはは。それもそうね」
笑う夏瑞に伶奈も釣られて笑い、そして、自分と彼女が未だにレジを挟んで立ち話していることに気づいた。
「うん……あっ、カウンターで良い?」
「良い……――」
カウンターの方へと夏瑞が顔を向けるも、すぐに視線をそらして伶奈に言う。
「イヤ、良くない。材料力学の三野瀬助教授じゃん……休みの日まで傍にいたくないよ……テーブル席、お願い」
「……厳しいの? 話したこと、ないけど……」
「厳しいもなにも、何回、レポート突っ返されたか……顔を見ただけでお腹がぎゅーってなるよ」
「ちゃんと書かないのが悪いのよ……」
「……大変だね」
頭の上でうそぶくアルトを一瞥、視線を戻してそういえば、夏瑞は気恥ずかしそうにそっぽを向いてつぶやいた。
「……大変だよ」
横を向いた夏瑞の顔が赤くなれば、ただでさえ童顔なのにますます幼く見える。その横顔を少しだけ低い位置から見上げながら、伶奈は彼女を山側、後ろの席へと案内した。
窓の外から明るい日差しが差し込み、緑まぶしい山が見えるこの席は、伶奈の指定席である窓際隅っこの席ほど従業員に忘れられもしないで、一番のおすすめ。
そこに腰を下ろすと、夏瑞は伶奈の顔を見上げていった。
「それで、結局、不景気な顔をしてた……理由なんて、忘れちゃった? 笑ってるし」
その言葉に伶奈はきょとんとした表情を見せ……そして、数秒、口を閉じ、再び、開く。
「…………なんだっけ?」
その少しだけ緩んだ頬の上、ふんわりと頭を揺らすアルトが屈託のない笑みを浮かべて応える。
「……どーでも良いことだったわよ、たぶん」
「あはは、そっか〜」
そして、童顔の女性も優しく笑った。
梅雨の前の出来事……
それから二週間後、喫茶アルトのフロアには半袖シャツにきゅっとネクタイを締めた少女がぱたぱたとめまぐるしく走り回る姿が見えていた。
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