イブ残り二分!
「やっぱり、帰ってこないのかな?」
窓の向こう側にはみぞれ交じりの雨、彼女は一人、それを見つめながらため息で窓ガラスを曇らせ続けていた。今日は――
「クリスマスだ!」
青年、宮武哲也ははっきりと宣言をくだした。今、彼の目の前には近所の喫茶店で買ってきた特大のケーキが一つ、場所は薄汚れた自分の部屋、一部腐海の森あり。クリスマスを祝うには甚だ不相応な空間だ。
「とりあえず、ビールって奴だな。バド、開けるぞ」
「サンタの人形、貰うからね」
しかし、彼には友がいる。例え、冷蔵庫の中から彼秘蔵のビールを漁ってる酒豪と、砂糖菓子のサンタクロースを頭からかじって喜ぶ激烈甘党の二人だったとしても、だ。
「全然、悔しくねーぞ!」
「人間、正直に生きるのが一番だぞ?」
「握り拳、開きなよ」
ごそごそと冷蔵庫で酒を漁っている独活の大木が竹田健二、クリスマスケーキの上のサンタの砂糖菓子に手を伸ばそうとしている小柄なのが青葉透。どちらも哲也と同じ大学に通う一年生だ。同じサークル――二輪車研究会のメンバー、三人とも一人暮らしという似た境遇のため、しょっちゅうつるんで食ったり飲んだり遊んだりをしている友人、悪友。他にもそう言う面子は何人か居るわけだが、今日はクリスマスイブ。暇な哲也が電話を掛けて捕まったのがこの二人だけだった。他の連中は、年明けに殺そう。
「黙れ! 健二! 透! お前らだって似たようなものだろう?!」
「あっ、俺は違うよ。ちゃんと彼女はいるもん」
「ちっ……まだ、別れてなかったか……」
グラスで揺れるバドワイザーを軽く煽り、哲也は苦々しそうな口調でそう言った。それに反してサンタクロースの人形を囓る透の笑顔が幸せそうなこと。無条件に殺意が芽生えてくる。
「パテシエだっけ?」
健二がそう聞くと、透は首だけになった哀れなサンタを口に放り込み、そうだよと答えた。
奴の恋人はこのケーキを作ったケーキ屋の娘、哲也と健二も紹介して貰ったことがある。なんというか、一言で言えば鼻の頭に生クリームつけてケーキを作ってるんだろうなといった感じの娘だ。
「さっきまで寝ないでケーキを作ってたから、今日は永眠直前まで寝るんだって」
心底嬉しそうな顔をする透を一発しばき上げ、哲也はつまみに買ってきていたフライドチキンに手を伸ばした。しかし、幸せの絶頂にいる透にそんな平手など通用しない。今のこいつをどうにかするには平手は平手でも相撲取りの平手でなくては無理だろう。
「大事にするこったな。いい人っぽいし」
「いい人だよ、俺にはもったいないって」
健二の言葉に透は大きく首肯した。そして付け加えられるのは「売れ残りのケーキ、沢山くれるんだよ」のお言葉。
砂糖菓子をガリガリ噛んでいることからでも判るように、彼はすさまじい甘党だ。飲み会に来ても、いつもケーキをつまみに水と言う人間。ケーキには水というのは彼の拘り。
「餌付けかよ……まあ、砂糖水の海に溺れるんなら本望だって人間とパテシエなんて似合いすぎてるけどな……」
「砂糖水の海……良いな……なんで海は塩水なんだろうね?」
哲也の半分以上イヤミの言葉に透は本気で首をかしげて答え、哲也と健二が顔を見合わせる。そして、苦笑いから爆笑へ。
「お前の死因は糖尿病だよ!」
笑いながらの大声を上げ、哲也はやっぱりこういうクリスマスも良いもんだな、と改めてそう思った……負け惜しみじゃないって、本当に。
夕方前に始まった男同士のクリスマスイブも一時間ほどが過ぎた時のことだった。テーブルの上に転がしていた健二の電話が、ポップソングの着メロを奏でた。
いつもよりも随分と速いピッチで杯を空けていた健二、彼が無造作にそれを手に取った瞬間、その顔から一気に酒気が抜けた。そして彼は「悪い」と一言だけを告げると、そそくさと部屋から出て行ってしまった。もちろん、食事の席で携帯電話というのはマナーに反する行為だ。だが、彼ら三人、そんなことを気にするような関係ではない。
それが電話の通知名を見ただけで顔色を変えて部屋を出て行った。それは取り残された二人だけの空間に不穏な空気を残すに十分な代物だ。
「何かあったか?」
「……かな?」
哲也と透は、それぞれ手に持っていた獲物をテーブルに置き、彼の出て行ったドアへと視線を向けた。
そして、酒もケーキも進まないジリジリとした時間が十五分ほど……外で電話をしていた男は出て行ったときと同じようにそそくさと部屋の中に帰ってきた。
「いや、悪いな。空気、汚したか?」
いつも通りの軽口……顔色は真っ青で声が震えていやがる。その顔を見れば「何かあったか?」に「か」と「?」は要らない。
「透」
哲也が短く命じると、透は「はいはーい」と笑顔で返事を一つ。立ち上がると、健二の左手と頭に手を当てると、パン! と軽く右足で左足を蹴っ飛ばす。出足払い。彼は柔道の有段者だった。
「待て! そんな話、聞いてねえぞ!」
それに引き替え、健二は高校時代、格技の授業でホンのちょっぴり習っただけ。受け身すら忘れている奴に対処のしようもなく、哀れ健二はすって〜んと冷たい床に寝っ転がるしかなかった。
「さてと、ちゃっちゃっと吐かないと寝業師とーる君の裸締めが炸裂するよ?」
美しい一本を素人相手にもぎ取った透は、流れるような体捌きを見せ、健二の背後に取り付いた。そして、首に巻き付くのは細くも無駄に筋肉質な腕。
なお、この後、言い渋る健二相手に哲也と透の苛烈な拷問が炸裂したわけだが、スペースの都合及び半分犯罪と言う事情もあるので割愛させていただく。
直後、哲也は健二から奪い取った携帯で電話を掛けた。相手は健二が夏休みの帰郷で再会した同級生。もちろん、先ほど健二の顔色を変えた電話の張本人であり、女性だ。
『もしもし!』
繋がった途端、水の音を含む嬉しそうな声が電話口から大きめに響き渡る。ちょっと耳がキーンとする。
「あっ、真下さん? 初めまして、俺、健二の友達です。よろしく」
『あっあれ……? あの……』
「ごめんごめん、健二、そこで簀巻きになってるから、代理。単刀直入に聞きたいんだけど、健二のこと、好き?」
『えっ? あの……』
まあ、見知らぬ男にこんな事を聞かれて普通に答えられる女なんて居ないよな、と心の片隅で思う。だから、彼女に考える暇も与えず、哲也は矢継ぎ早に言葉を続けてた。
「あっ、嫌いなら、今すぐ絞めて、川に捨てておくよ? 後腐れなく。こいつ、まだ、君のこと好きみたいだから」
『いえっ! そんなこと……好き……です』
消え入りそうになっていた声が、ほんの少しだけ大きなものになった。
「そっかぁ〜今、一人? 家?」
『はい……そうです……家族、居るけど』
ここまでは想定内、哲也は一つ大きく息を吸った。そして、出来るだけ軽い口調を心がけながら本題中の本題を切り出した。
「今から連れて行って良い?」
『待っています!』
今まで一番大きな声。哲也はこの時初めて、彼女の本当の声を聞いたような気がした。
邪魔な水音はもう聞こえない。
夏休みの本屋、健二は一人の同級生と再会した。高校時代、お互いちょっと良いなと思っていた二人は、再会をきっかけに親密さを増していく。どこにでも良くある話。しかし、それが友達以上恋人未満から踏み出されることはなかった。なぜなら――
「お前! 俺の地元、何処か知ってるのか!?」
拘束から解き放たれた健二は、青かった――首、絞められてたから――顔を赤く変えるとアパート中に響き渡るかというような声を上げた。
「T県だろう? ここから五百キロくらいだな」
シレッとした顔で哲也は答えた。
それ以上に踏み出せなかった理由がこれだ。まだ一年目の半分、残り三年半。その間、遠距離恋愛をやるには決して近い距離ではない。いや、有り体に言えば遠い。簡単に会いに行くなんて事の出来る距離ではない。そんな金も時間も、バイト学生の身には存在しない。
だから、健二は『冬は帰ってこないから』と言った。三年半も待たせたくないから。
でも、彼女は『クリスマスまで待っている』と答えた。そして、待ちきれずに電話をしてきた。
とまあ、ここまでが哲也と透が拷問の限りを尽くして健二から聞き出したことの全貌だった。
「人間、正直に生きるのが一番なんだろう? お前だぜ。そう言ったの」
「正直とわがままは違う。俺を待たなくても、すぐに新しい恋人が出来る! 美人なんだから!」
「その握り拳開いてから言えや! カッコつけんな! この甲斐性なし!」
口論は口喧嘩へ、そしてつかみ合いの喧嘩へと進化していく。その二人の肩をポンと透が一つずつ叩いて、脳天気な微笑みを浮かべて見せた。
「ヒートアップしてるところ悪いけど、足、確保したよ。四研の佐古田会長が貸してくれるって」
「なにっ!? 佐古田会長に喋ったのか!?」
「ううん、知り合い全部にメール打った。包み隠さず、全て……ちょっと――ごめん、凄く脚色した」
怒りに紅潮していた健二の顔から再び血の気が引く。その肩を哲也はポーンと一叩き。
「折れ時だな」
「……金がなくなったら、いっしょにパンの耳かじれよ!」
嫌々……そんな風を装いながらも先頭を走り出す健二の後を、哲也と透の二人が追う。彼らのイブはここから始まった。
「良し! 飛ばすぞ! 六時間で着けばイブ中だ!」
「飛ばすの俺……ガス代、山分けだよ」
そして――
「新年だ!」
哲也が宣言を下し、野郎三人の新年会はクリスマスと同じ部屋で始まった。饗される食事は近所の喫茶店で貰ってきたパンの耳をラスクにしたもの。学生達に最後の非常食と言われている一品。ちなみに昨日の夜もこれだった。
その背後にはオンボロ車の前でポーズを取る三人の男と一人の女性の写真が画鋲で留められていた。
『イブ残り二分!』
隅っこにこんな一言が書き添えられて……