禍福は……
時は物語が始まる数年前、とある高校の合否発表の瞬間にまで遡る。
「……マジ、受かってら……冗談だろう?」
と、自分の番号がある掲示板を見上げ、そうつぶやいたのは、受かりっこないと思ってた男子校にうっかり合格しちゃった浅間良夜君。そのお隣では普段ならば彼よりも半馬身差で彼よりも出来のいい友人が、がっくりとうなだれている。
「……残念、だったな?」
「うるさい、勝利者……三年間、ドドメ色の男子校生活でも送ってしまえ」
良夜が控えめの口調で言うと、彼は何か苦い物でも吐き出すか、呪詛の言葉でもつぶやくような返事をした。
そして、良夜はこの名もなき友人のお言葉どおりにドドメ色の男子校生活を送り、当の友人は共学公立に進学、最初の夏休み前には彼女を作って、桃色の学園生活を送った。
「禍福はあざなえる縄の如し……入試に出てたなぁ〜」
幸せそうな“元”友人を遠くから見守り、良夜はそうつぶやくことになる。わけだが……今回関係なし、これで出番終了。
「そーなん!?」
今回の主役は、その場からはるか遠く離れた某県某市某公立高校にいた。そこでは、抱き合って涙を流す女子中学生、悔し涙に目を腫らす男子……桜のつぼみ膨らむ校庭では悲喜交々のドラマが繰り広げられていた。
「何かの間違いでなおが滑ってたら、私、登校拒否してやるから」
「……また、そういうむちゃくちゃ言ってる……」
気の早い枝がちらほらと花を咲かせる下、カップルが掲示板を見上げていた。数年後、タカミーズと呼ばれる事になる一組の男女、吉田貴美と高見直樹。二人が見上げた掲示板から互いの受験番号を見つけるまで、たいした時間は必要ではなかった。
「うっしっ! なお! これから三年、一緒やねっ!」
「学校別になったって……家はずーっと隣じゃないですか……」
まわりの女子生徒よりも頭一つ分高い貴美が、直樹の小さな手を握りしめて破顔する。パッと花の咲いたような笑顔、それを直樹は素直にかわいいと思った。そして、彼は一緒の学校に進学できる事を半分安堵しながらも、残り半分では──
(三年、また、理不尽な苦労ばっかりするんだろうなぁ……きっと)
と、確信にも似た不安を抱いていた事は言うまでもない。
が、それは高々三年で終わらなかったことは本編を読んでいただければ理解できるだろう。
さて、その日の夜、吉田家では二人の合格祝いのパーティが盛大に執り行われた。とは言っても、両家の家長はともにお仕事中、せっかくの合格祝いのパーティだというのに、祝ってくれるのはお互いの母親だけ、と少々寂しいものだった。しかし、そんな寂しさも始まるまでの話。始まっちゃえば、貴美が大人の飲んでいるビールを一気飲みしちゃったり、初めてのビールを──
「ありゃ……意外とおいしい……」
などと言い出して、直樹が軽く頭を抱えたとか。酔った勢いで家族の前で貴美が直樹にキスしちゃったとか、しかもそれはディープキスだったとか……様々な事件が勃発した。
そして極めつけ。ここまで起こった事件がただの些事でしかなかったと思わせる事件が、最後の最後、そろそろお開きかというような時間に起こった。
ぴんぽ〜ん
チャイムの音が響く。お客さん……と言う訳ではなく、当家の家長、吉田勝(よしだまさる)氏の帰宅のチャイムだった。
「あらあら……お父さん、遅かったのね」
そう言って二人の大人の片方が立ち上がった。黒髪の女性、背こそ人よりも高めだが全体的に細身で華奢、タレ目と合わさり、良く言えば儚げ、悪く言えば頼りないと感じる女性だ。名前を吉田恵(よしだめぐみ)といい、貴美の母親だったりする。
「マサちゃんにお帰りのキスしてあげんだよ〜」
と、いい加減な事を言っちゃったのはもう一人の女性。金髪に近い色にまで髪を脱色し、身長は低めだが出る所は出て、引っ込む所は引っ込み、数年前に四十の大台を踏み越えたとは思えないスタイルを誇っているのが、高見柊子(たかみとうこ)という。もちろん、直樹の母親だ。二人の母と二人の子供、その組み合わせを間違える、と言うのはタカミーズ共通の友人知人(歴代担任含む)の通過儀礼。中には家庭訪問に来て、柊子に貴美の話をして帰ろうとした教師までいたりする。
「んあ……パパ、帰ってきたぁ?」
初めてのビールに貴美もふわふわとした表情を見せ、その大きな胸元で直樹を羽交い締めにしていた。
「よっ、吉田さん……離して、死ぬから……死んじゃうから……」
ジタバタジタバタ……いくらあがいた所で、ヘッドロック気味の抱擁は外れはしない。柔らかい胸はそこそこに気持ちいいのだが、今の彼にそれを味わう余裕など、毛ほどにもなかった。
パタパタとスリッパの足音が彼の横をすり抜ける。顔は貴美の胸元しか見えていないが、きっと、恵なのだろう。自分の娘がよその子供を殺しかけているのに知らん顔とは……この辺、もしかしたら、似た者母娘なのかもしれない、と直樹は薄れ行く意識の中で思った。
「ただいま、貴美……それに直樹くんも……生きてるのかな?」
「もっ、もうすぐ……死ぬ……助けて……おじさん」
息も絶え絶え、過去の経験から当てにならないだろうな、と思いながらも直樹は助けを求める。そして──
「こら〜マサちゃん、お隣の不倫相手にご挨拶は?」
「クスッ……相変わらずですね、高見さんの奥さんは」
「まぁねぇ〜」
やっぱり当てにはならなかった。お気楽な口調で隣の旦那に声をかける我が母と、それに苦笑いで返事をするお隣のおじさん、いつもの事といえば激しくいつもの事だった。
「貴美、合格したんだってな? そりゃ、良かった」
「うん、まぁね、なおも受かってたんよ?」
「ああ、私立いくとなると大変だからなぁ……今日、会社、辞めてきたし」
一瞬、すべての音が消えた。その直後、グキッ! 直樹の首から嫌な音がする。
「首が!! 首が!!!」
ようやく開放され、筋の違えた首を抑えて直樹は転がった。しかし、誰もそれに反応しない。もっとも、誰も反応してくれないからといって、首の痛みが消える訳でもない。彼は思う様、床の上で転がりまわり、しかるのちに顔を上げた。
「えっと……あの……」
誰もが直樹の事なんて無視ぶっちぎり。ネクタイを外しながら、テーブルに視線を向ける中年だけを見つめつづけていた、呆然と。
「おっ……越乃寒梅……しばらくは飲めそうにないなぁ……」
背が高く、少々白髪が目立つもダンディな中年男性は大きな座卓の前に座り、一升瓶からグラスに日本酒を注ぐ。誰もが彼の仕草をジーッと見つめ、彼の言ったことをゆっくりと頭の中で咀嚼する。それは、グラスに注がれた冷酒が男の喉を流れ落ち、さらには串カツ一本がテーブルの上から消え去るまで続いた。
「「「「って、辞めちゃったのっ!!!!」」」」
その場にいた人間、一斉に声が上がった。誰もが顔色を変える中、当人だけは平気の平左。串カツ片手に日本酒が進む進む。
「おっ、辞めた、辞めた。ハゲ部長の態度にカチンと来たから、辞表、叩きつけて帰って来た。来週一杯残務処理の後はめでたく無職だ」
かくして、めでたい合格発表の当日、吉田家大黒柱は無職になった。
「実際、体の良いリストラだったみたいなんよねぇ……」
数日後、吉田貴美は高見直樹の部屋でアルバイト情報紙を読んでいた。
「それで……本当にアルバイトするんですか?」
「うん、再就職の当てはあるけど、給料激減なんだって……ほら、うち、バブル崩壊直前に家買っちゃってるから、ママもパートしてるけど、ローンでギリギリなんよ。せめて、自分の小遣いくらいは稼がないと……高校入ったら携帯も欲しいし」
バブル最高値で家を買い、リストラの嵐が吹き荒れれば大黒柱がその旋風の直撃を喰らう。貴美の家は客観的に見れば、かなり悲惨な部類に入る方なのかもしれない。もっとも、バブル最高値で家を買ったのは高見家も同様だが。
「でも、吉田さん、悲壮感ないですよねぇ……」
「ん? まあ、パパもママも割とのんきだから……マイペースだし。それに、人生なんて大体どうにかなるもんだよ……って、あっ、これ良さそう」
「どれですか?」
そう言って貴美がバイト情報紙のページをペラッとめくった。直樹がそれを覗き込むと、彼女は見やすいよう、少しだけ青年のそばへと体を寄せる。吐息も重なり合うような距離……二人は小さな記事に視線を重ねた。
「喫茶屋根の上の黒猫。ウェイトレス、賄い付き、高校生可、勤務時間相談可。家からも自転車で行けなくもない……かなぁ……微妙かなぁ」
営業内容は喫茶店とファミレスの中間と言った所か? 場所は詳しく解らないが、地図と住所から二人の家からの距離は大体三キロ強程度、確かに自転車でいけない距離ではない。時給も悪くはない。ただ、直樹には一つだけ気にかかることがあった。
「でも……閉店時間、遅いですよ? 昼のうちは授業もあるし……」
ラストオーダーが九時半、閉店は十時。最後まで働くとしたら、家に帰ってくるのは十一時前だ。そんな時間に女子高生が一人で出歩くのは……と、直樹は眉をひそめながら、彼女の顔を覗き込んだ。
が、彼女は胸を張って言い切る。
「なおが送り迎えしてくれるよね?」
「えっ……?」
「送り迎え」
右手がバイト情報紙から離れ、彼女の背後へと動く、引き絞られる弓のように。
「やだって、言ったら殴るんですよね?」
「うんって言ってくれたら、抱きしめてあげる」
彼女の目は本気だった。だから、直樹は素直に抱きしめられる方を選んだ。しかし、それがベアーハッグに近いものだったことは秘密だ。
「ギブッ! ギブッ! 口から何か出ます!!」
そんなこんなで貴美は高校入学よりも先に就職先が決まった。店舗規模は喫茶アルト五割増ほどだろうか? 結構大きく、それに比して従業員も多い。ケーキの類も併設された工房で五人のパテシェが作るという本格的な喫茶店。何より、貴美を気に入らせたのは、その店のデザインだ。レンガ造りの洋館に黒い屋根、そのてっぺんには二匹の親ねこが三匹の仔猫を引き連れて行進しているオブジェが飾られている。これを貴美は「シャレてる」と評し、非常に気に入った。
もっとも、直樹は、
(台風で飛んだりしないのかなぁ……)
などと他人事ながら、不安になった物だ。
貴美のバイト内容は第一にウェイトレス、フロアが暇になったら皿洗い、その他ゴチャゴチャと雑用らしい。九時すぎに迎えにいくだけの直樹には細かい内容までは解らなかった。
「毎日毎日、自転車で三キロはしんどいですよ……他の場所にしません? 近所のスーパーとか」
「えぇ〜ここのバイト、気に入ってんだけどなぁ〜店長とかチーフとか、いい人だし。特にチーフはからかうとおもしろい」
バイト開始三カ月、梅雨入り間近とあって夜は油断すると雨に降られる。その夜も見上げれば星一つ見えない曇り空、月齢は満月に近いはずなのに、月の明かりはどこにも見えない。直樹はその星空を背景に、貴美の顔を自転車の鍵を外しながら、見上げた。
「それにねぇ……賄いついてるから、家に帰ってご飯も食べずにすむし、私がご飯食べないから、ママもパートの時間伸ばせてるし……」
ママチャリを押しながら、貴美も空を見上げる。見上げた耳をつんざく、エキゾーストノイズ。
「相変わらず、賑やかですね……店長さんでしたっけ? あのバイク」
駐輪場ではなく、裏の物置に毎日突っ込まれているオートバイ、カワサキZZR−400。『屋根の上の黒猫』店長、安浦久吉(やすうらひさよし)が乗り回しているバイクだ。駐輪場じゃなく、物置に突っ込まれているのは盗難避け。
「そそ、てんちゃんの。ん? うーーーーーーーーーーーん……そだなぁ……」
その音を聞きながら、貴美はうーんと首をひねる。そして、十数秒。ちょうど、レンガ作りの壁の向こう側から、黒いバイクが駐輪場へと向けて滑り出したとき、彼女の大きな胸の間でポン! と手が叩かれた。
「おーい、そこをいく、おにーさん!!」
「んっ? ああ、吉田さん……と、彼氏の高見くん、だったかな?」
ピカピカに磨かれたオートバイが目の前に止まる。彼女はそれをポンポンと軽く叩きながら、興味深そうに覗き込んだ。
「あっ、吉田さんがいつもお世話になってます」
ペコッと頭を下げ、直樹は目の前に止まったバイクに視線を向ける。大きなオートバイ、排気ガスの匂いが結構強い。
「なおのことは直樹で良いって言ってんやん。それより、バイクって免許、何才からとれるん?」
彼女はバイクから手を離して言う。その一言に直樹は猛烈に嫌な予感を覚える。なぜなら、直樹はその答えを知っていたからだ。もうすぐ、自分がその年齢に達することも知っていた。
「十六だよ。吉田さんは十二月だっけ? 誕生日。まだ少し先だね」
青年をそろそろ卒業しそうな男性は、直樹の“猛烈に嫌な予感”など気づきもせずに答える。
「うん、私はね……──」
びくびくん!!! 貴美の猫なで声に直樹の心が震える。震える体を貴美が背後から強く抱きしめ、彼女は耳元で彼の名前を読んだ。
「なっおぉ〜」
「いっ、嫌ですよ! 僕!! バイクの免許なんてとりませんから!!」
時、梅雨入り前、六月下旬、もうすぐ誕生日、そしてもうすぐ十六歳。めでたく免許解禁。
「おっ、高見くん、バイクの免許、取るのかい? だったら、良い教習所を教えてあげるよ」
「だから、取りません! って! うちの校則、知ってるでしょ!? 取っちゃダメなんですよ!! バイクの免許!!」
「その校則、補足の所に『ただし、通学の事情、もしくは家庭の事情でやむを得ない場合はこれを許可する』ともあるんよ? フィアンセの送り迎え、もう、これはやむを得ない事情っしょ?」
何でそんな校則の細かい所まで知っているのだろう? と、首根っこを抑えながら彼は思った。がっちりと首に絡まる細い腕。耳の横に当たる胸がちょっぴり気持ちいい。
「って、僕、吉田さんのフィアンセになったつもり、ないですから!!」
緩んでいいのか、苦しがって良いのか……やっぱり、苦しい方が強いっぽい。そんな微妙な表情で直樹は言う。言えば、貴美は大声で「何っ!?」と怒鳴った。ついでに気持ち良さと苦しさの天秤が後者の方へと傾きを強める。
「私のファーストキス、奪ったくせにやり逃げするつもりやったん??!! クラスのみんなに言いふらしてやる!!!」
「誰もそんなこと言ってません!!」
「じゃぁ、フィアンセ!! 送り迎えのために免許とる! OK?!」
絞められる首、薄れ行く意識の中で、彼は店長のお気楽な声を遠くに聞いた。
「いやぁ〜若いって良いなぁ〜」
なお、数ヶ月後、彼は直樹のバイク仲間第一号、ついでにツーリング仲間第一号になったりするのだが、それはまた別のお話。
さて、学校の教師と貴美がどういう話合いをしたか、それは直樹が知るよしもなかった。ただ、現実問題として彼には小型限定ではあるが二輪免許の習得の許可が降りていた。
そして、それ以上に、彼には彼の母親が笑顔で言い放った言葉だけが心に突き刺さる。
「直樹、今度の試験で学年一桁に入ったら、バイク、買ってあげるわね」
誰もそんなことは頼んでいない。むしろ、反対して欲しかった。でも、高見直樹(やれといわれなきゃやらない人)の母親は良い口実が出来たといって喜んでいた。
そして、彼がこの目標をクリアするため、吉田貴美(やらなくてもできる人)はバイト終了後、毎晩深夜二時まで直樹に勉強を叩き込んだ。
だが、しかし、あの夜、店長が最後につぶやいた言葉は直樹が免許をとり終えるまで、タカミーズの二人共気がついてはいなかった。
「でも……タンデムは一年禁止だぞ?」
結局、貴美も翌年一月、冬休みの最中にオートバイの免許を取ることになったのは、言うまでもない。挙句、直樹は貴美をバイクで迎えにいき、帰りは押して帰るという愉快過ぎることをやるハメになった。
訳だが……
「あの時、なおにバイクの免許なんぞ取らせなかったら……このバカの違反切符に頭、抱えんでも良かったんやね……私は」
夏休み、自分の留守中に切られた青切符(一人暮らし─TAKE2─参照)と付属の振込用紙を見詰め、貴美は日本海溝よりも深いため息をついた。
「あはは……乗ってみると、オートバイってすごく楽しかったんですよねぇ……」
金と点数のなくなった男はひきつった笑みを浮かべていた.
「こういうの、禍福は糾える縄の如っていうのね……」
「策士策に溺れる、ともな……」
夏休み、喫茶アルトのパンの耳生活が決定した同棲カップルを、妖精さんは数年前、同じ言葉をつぶやいた青年の上から見守っていた。