喫茶アルトの巨乳の方とあんなチビ
 Side:現在
「喫茶アルトの巨乳の方はなんであんなチビと付き合ってるのか?」
 良夜がそんな『第三の七不思議』候補――第一と第二は『出会いは三月(1)』参照――を耳にしたのは、貴美が喫茶アルトでバイトを始めて一月半が過ぎようとしていた五月中頃のことだった。
「で、私が喫茶アルトの貧乳の方ですか? そうですか? お客さん、コーヒー飲んだら、とっとと帰ってくださいね」
 その話を暇な美月が店内をフラフラしている日曜日の喫茶アルトでしちゃう辺りが、良夜の迂闊なところである。懲りると言うことを知らない人間。
「俺が言い出した事じゃありませんし、誰もそんなことは言ってません」
「巨乳に対応するのは貧乳しかないじゃないですか? きっとうちのお客さんですよ、その話を作った人」
 美月が犯人捜しをしだしたというのは本編とは全く関わりのない話。美月が犯人捜しをしはじめてすぐに、その話が『喫茶アルトの茶髪の方』に書き換えられた事から、犯人は本当にアルトの常連客なのだろう。
「まあ、外見的にも内面的にも、あまり釣り合いが取れてるわけじゃないよな」
 外見で言えば、可哀想だが天秤は貴美に傾くし、内面的に言えば……貴美はただのダメな人でしかない。良夜はそんなことを思いながら、ようやくコーヒーに満足したアルトからカップを奪い取り口に運んだ。
「良いのよ、私が外見担当で、なおが内面担当。丁度釣り合い取れてんじゃん」
「それじゃ、僕が吉田さんの顔だけ見て付き合ってるみたいじゃないですか……」
「ここも」
 そう言う貴美の指は自分の大きな胸を指さしていた、しかも真顔で。
「……どうせ、私は永遠の関東平野娘ですよ……Aカップでも一生懸命生きてるんですよ」
 胸を指さす貴美を見て、美月は深く傷ついたという。しかし、美月が関東平野娘なら、アルトは奈良盆地娘だな、と良夜は密かに思った。口に出したら、二人にマジ殺される。
「聞いても大して面白くないよ?」
「恥ずかしいだけの話です……聞かないでください」
「人の恥ずかしい過去ほど面白い話はないわ」
 恥ずかしそうにそう言う直樹をストローで指し示して、アルトは良夜にだけ聞こえる声できっぱりと言い切った。
 こうして、日曜日の暇な昼下がり、喫茶アルト良夜の指定席でタカミーズ結成秘話が語られることとなった。

 Side:貴美十数年前
 私が幼稚園に入る直前か入った直後くらい、細かいところは覚えてない。私の家は引っ越しをした。両親が念願のマイホームを手に入れたから。狭っ苦しくて古い、家賃が安いだけが取り柄の市営団地から新しく造成されたばかりの住宅地にある新築一戸建て、おそらく両親の喜びはひとしおだったと思う。大きくなったら私一人の部屋も上げると言われたものだが、私は多くの手下……じゃなくて、沢山の友達が居る団地から出て行くことのショックが大きかった。ガキ大将だったんだよね、私。
 だから、私は引っ越しが決まった日から実際に引っ越しす当日の朝まで、思いつく限りの抵抗を見せていた。両親が作った荷物の梱包を解いたり、仲間達を集めて家に籠城してみたり、引っ越した先では、逆に解いた梱包を片っ端から梱包し直してみたり。もうちょっと大きかったら、家出くらいはしていたかも知れない。
 色々と抵抗したところで、所詮は幼稚園児。結局、無理矢理、引っ越し先へと連れて行かれてしまった。
 連れて行かれた先のお隣には、私の名前と同じ苗字を持つ『たかみ』という家族が住んでいた。造成されたばかりのとびっきりに新しい住宅地、回りはみんな、同じ時期に引っ越し来た人ばかり。本当の意味でゼロからのスタートだった。
 隣り合った二軒に同い年の子供、それも引っ越したばかりで誰も友達が居ないとなれば、親としては引き合わせたくなるのも当然だと思う。引っ越しの片付けが終わるよりも早く、私は母に連れられ、なおと引き合わせられた。片付けの邪魔になる私を、お隣さんに預けてしまおうという打算もあったのだろう。こういうところは私の親らしい。
 二人の初対面、それはそれ以降の二人の関係を暗示するような物だった。
「……たかみなおき」
 今でもモロ総ウケって感じのなおだが、この時は『女の子っぽい男の子』と言うよりも『男物を着た女の子』だった。小柄で華奢な、大きなくりくりとした目が特徴的な男の子。この頃から、人より発育の良かった上に外で暴れ回るのが趣味だった私と並ぶと、どっちが男の子でどっちが女の子だか解りはしない。
 そんななおは自分のお母さんの背中から顔を出して、小さな声でそう言った。そう言ったなおに返した私の言葉は、これ。
「……へんななまえ」
 いやぁ、みんな、固まった固まった。特に私の母なんか、手に持ってたお茶を落としちゃうくらいに慌て返っていた。まあ、我が子が他人様の子を指さして『変な名前』と言ってしまったんだ、当然の事だろう。速攻で私の後頭部に母の平手が飛んだ。しかし、考えても見て欲しい、自分の名前と同じ苗字を持つ子供と出会ったときの驚きという物を。
「……ママ、ぼくのなまえ、へんなの?」
 対応に困って苦笑いを浮かべているなおのお母さんに、そう尋ねるなおの顔がいまでも良く思い出せる。
「わたしはたかみだよ、なお、いこっ! あっ、でも、たかみはなおのなまえとおなじだから、よしだちゃんってよんでね!」
 未だ呆然としているなおにまくし立てると、その小さな手をギュッと握って、何処かに掛け出していってしまった。この後、どこで何をして遊んだのかは良く覚えていない。でも、もう、その夜には団地に帰りたいとは思っていなかった。いや、帰りたいとか、帰りたくないとかという話は全く考えず、ただ、翌日、なおと何をして遊ぶか、それだけしか考えていなかった。
 ちなみになおはこの日の遊びを良く覚えていた。なおの家の裏にあった空き地で、おままごとをしたらしい。
 私が作った泥団子をおはぎと称して本当になおに食べさせるという、リアルなおままごとをやったそうだ。全然、覚えてない。
 そう言えば、なおは今でもあんこの類が少し苦手、もしかして私の所為だったりして。

 Side:直樹小学生
 二組の隣り合った家は、すぐに家族ぐるみで付き合いをしはじめるようになった。吉田さんが僕の家に泊まることも良くあったし、僕が吉田さんの家に泊まることも少なくなかった。二つの家族、六人で旅行に行くこともあったし、食事を一緒に取るくらいなら毎月のようにやっていた。中学生になる頃には、相手の家に子供預けて親だけが旅行に行ったりまでするようになった。ここまで来るとやり過ぎだと思う。
 僕らは毎日のようにお互いの家を行き来していた。小学校に上がれば他に何人も友達が出来たけど、一番の友達というのは僕にとっては吉田さんだったし、吉田さんにとっては僕だったのだと思う。
 そして、これは小学校に入ってしばらくしてから、多分、三年生か四年生の頃の話。
「ママ、おやつ!」
「貴美、直樹君の家で何も貰ってないでしょうね?」
「うん、今日は貰ってないよ。なおのおばさん、居なかったもん」
 吉田さんはさらっと嘘を言う。一ミリたりとも不安そうな表情を見せないのは、素直に凄い。僕にはとてもまねが出来ない。
「本当? 直樹君」
 吉田さんのお母さんは疑いの視線で僕の顔を見つめる。二つの家では、片方の家でおやつを貰ったら片方の家では貰わないというルールがあった。そうしておかないと、吉田さんがおやつだけで満腹になって、晩ご飯を食べないから。
「えっ……」
「本当だよね、なお?」
 言いよどむ僕のお尻に、吉田さんの細い指先がそっと押し付けられる。ここで僕が本当のこと、ケーキとジュースを食べたことを言えば、容赦なく爪を食い込ませるに違いない。もちろん、吉田さんが僕の背後でそんなことをしていることなど、吉田さんのお母さんが知るはずもない。
「お母さん……居ませんでした……よ」
 つい、視線を背けて小さな声で答えてしまう。ここでばれちゃうと、後で吉田さんに何をされるか判らない。
「そっかぁ、じゃぁ、シュークリームが冷蔵庫にあるから、一つずつ持って行きなさい」
 吉田さんのお母さんは優しい。でも、その優しいお母さんの娘さんは、僕のお尻のお肉を摘んでニコニコ笑ってる。僕は十歳にも満たない年齢で、どうして、この優しいお母さんから、こんな人が産まれるのだろうか? と言う大きな疑問について悩んだものだった。
「ありがとう! じゃぁ、私たち、空き地に行ってくる!!」
 シュークリームを持って僕らが吉田さんの家を出ると、僕の家から僕の母が出てこようとしていた。それは僕らを見送りに出て来ていた吉田さんのお母さんの目にも見えている。
「あら、こんにちは。いつも息子が……」
 なんの事情も知らない僕の母は、出て来た吉田さんのお母さんを見付けると、笑みを浮かべて僕らの方へとやってきた。居ないことになっている人が居たんだから、僕らの嘘が形を留めていられるはずはない。
「……貴美!」
 僕の母を見ていた吉田さんのお母さんの顔色が変わり、大きな声で吉田さんの名前を呼んだ。けど、もう、吉田さんは逃げ出す準備をしつつ、シュークリームをかじっていた。
「まずっ、逃げるよ!! なお!!」
「えっと、あの……ごめんなさい!!」
 一目散に駆けだした吉田さんに手を引かれ、僕は背後から吉田さんを呼ぶおばさんに大きな声で謝った。笑いながら駆け出す吉田さんと、その吉田さんに引きずられていく僕、初めての出会いの日、この日、そして、大学生になっても、この構図は変わりはしなかった。

 Side:直樹小学六年夏
 そんな僕らの幸せな子供時代がほんの少しだけ変わるのは、小学六年生の夏休み直前の話だった。
「中学受験?」
 放課後、僕の部屋でピコピコとゲームをやっていた吉田さんは、ふと思い出したかのようにそんな話を切り出してきた。ように、と言うより、実際、この時まで言うのを忘れていたんだろう。
「そっ、私立中、受けてみるか? って。先生が」
「どこなんですか?」
「桂聖女学園中等部」
 私立中学校なんてあまり知らないけど、確か、幼稚園から大学までのエスカレータ式女子学園でかなりのレベルがないと合格できないという話の学校。それなりに頑張っても中の上が限度だったそのころの僕には、仮に僕が女子であっても合格どころか、先生に志願書を書いて貰うことすら出来ないかもしれない。
「ものすごく難しくないんですか? そこ……」
「らしいね、興味ないからよく解らないけど」
 吉田さんは凄く勉強が出来る。授業を真面目に受けてるだけで、家でも勉強をしている僕と同じくらい。真面目に勉強すれば、クラスで一番か二番くらいにはなれる人だった。しかも、この頃は『必要最低限の目標を決めて、それ以上は絶対に頑張らない』という奇妙なポリシーも持ってなかった。中学に入った辺りから、こういうポリシーを持って勉強しなくなったんだよね、この人。
「どう思う? なお」
「どうって……凄いとしか……とりあえず、応援してます、かな?」
 ここまで凄い人が僕の幼なじみだって言うことに、僕は少しだけ誇りに思えた。はた迷惑なだけの人じゃないんだなぁ……と。
「ふぅん……判った、じゃぁ、受ける」
「へぇ?」
「ううん、こっちの話。で、そう言うことだから、夏休み、遊べないから」
「あぁ、勉強するんですね。頑張ってください」
「……頑張るよ」
 吉田さんの居ない夏休みか……寂しいけど、のんびり出来そう。僕はそんなことを思っていた。
 実際、夏休みは驚くほどのんびりしていた。こんなにのんびりした夏休みは、過去五回の夏休みはもちろん、春休み、冬休み、全ての中にただの一度もなかった。って事を何年か後に言ったら、吉田さんに思いっきり殴られた。

 Side:貴美小学生(六年後半)
 小学校六年生の八月から三月受験前日まで、今から考えてもあり得ないくらいに勉強していた。一生において、ここまで必死扱いたのはこの半年ちょっとだけだと思う。休み時間も教科書を開いて、授業が終わったら学習塾、帰ってきてからも何時間か勉強、多分、大学受験を控えた浪人生よりも勉強していた。実際に大学受験をしたときは、これよりもずーっと少ない勉強時間しか取ってなかった。アルバイトも続けてたし。勉強をしてた分、なおとは随分と疎遠になっていた。と言うよりも、なおと疎遠になるために勉強に打ち込んでいた。
 きっかけは、なおに中学受験を打ち明けたときのことだ。反応が薄いというより、はっきりと応援してくれた。それが気にくわなかった。
 私はなおの姉貴分だと思っていた。半年ばかり私の方が年下だけど、姉貴分のつもりだった。私の身長がなおよりも高かったから。
「私が居なきゃ、なおはすぐに寂しがる」
 根拠もなくそう思っていた。いや、根拠はあったかな、いつもなおの手を引いていたのは私だったのだから。他の誰かがなおの手を引くなんて事や逆に誰かの手を引くなんて事、全く考えてなかった。
 が、これが全く、寂しがらないんでやんの。なおは他の学校の友達とつるんでは、何処かに遊びに行ったり、家でゲームをしてたり、私が居ないってだけで、全くいつも通りの生活をしていた。のちの話だが、「吉田さんの突飛な行動がない分、気楽でしたよ」とまで言い切るほどに普通だった。怒りを通り過ごして、笑っちゃった。言ったなおを殴ったけど。
 絶対にそのうち、寂しいから遊んでくれと言い出すに違いない、私はそう思い、なおと遊ばなくなって余った時間、全てを勉強につぎ込んだ。つぎ込んでつぎ込んで、更につぎ込んで、気がついたら受験の前日になっていた。
 その日、なおは久しぶりに私の家に一人で来た。受験勉強宣言をした翌日から、なおがうちに一人で来るのはその日が初めて。
「いよいよ、明日ですよね」
 ついに来たと思った。勝った、私はなおに勝った。どんな勝負をやってたんだか判らないけど、とりあえず、勝った。私は勝利の味を強く強く噛みしめつつも、平静を装い、普通の口調でなおを出迎えていた。
「うん、一応、軽く勉強するつもりだから、用事があるんなら早めにね」
 今、流行のツンデレっぽい。
「あっ、大した用事じゃないんですよ」
 うんうん、大した用事じゃないけど、遊びに来たんでしょ? いーよ、いーよ、遊ぼう、私はしばらく新しいゲームとか買って貰ってないから、なおの家から持ってきてね。あっ、もしかして、その紙袋がそうかな? なおの手に持った紙袋、CDが入るにはちょっと小さいかも知れないけど、携帯ゲームのROMなら楽に入る大きさ。顔が赤いのは久しぶりに遊ぼうって言うのが恥ずかしいからかな?
 なんてことを、ウキウキしながら待つ私に、なおは持っていた小さな紙袋を手渡してくれた。自分では判らないけど、私の顔はにやけっぱなしだったに違いない。
「これ、この間、お父さん達と天満宮のそばに遊びに行ったから」
 天満宮って……確か、菅原道真が奉られてる学問の神社だよね、社会科の問題集にそんな問題があったと思う。境内のバッタもん屋で買ったのかな……等と思いながら開いた紙袋には――
「僕のおこづかいで買ったんですよ。それじゃ、頑張ってくださいね」
 中身は合格祈願のお守り。天神様なんだから、当たり前だよね。
 私は完璧に停止した思考の中で、なおがさっさと帰っちゃうのを見送ることしかできなかった。

 Side:直樹小学校(卒業直前)
 受験が終わった当日から、吉田さんは前にも増して僕の家に遊びに来るようになり、僕も毎日のように吉田さんの家に連れて行かれるようになった。どっちが自分の家で、どっちが吉田さんの家なんだか判らなくなるくらい。僕の家の客間は吉田さんの寝室になってるし、吉田さんの家の客間も僕の寝室みたいになってる。卒業した後なんか、僕は両親から『今夜はどっちで寝るの?』とまで聞かれるような始末。名門女子中学を受験している人がこんな事をしても良いのかな、と思った。
 これはそんな小学校卒業直前の話。放課後、吉田さんの家でテレビゲームをやっていると、吉田さんがお母さんに呼ばれ、部屋を出て行った。しばらくして、帰ってくると明るい顔で『中学も一緒だよ』とだけ言うものだから、僕はその言葉どういう意味なのか、しばらくの間、把握できなかった。
「すべったんですか?」
「そっ、なおのお守り、持って行ったんだけどね、無駄にしちゃった。ごめんね」
 吉田さんがどれだけの努力をしていたか、それを僕は知っている。休み時間もずっと参考書を開いて、授業が終わったら学習塾、それから帰ってきても毎晩遅くまで吉田さんの部屋の明かりが消えることはなかった。見ている僕が、遊びほうけている自分が恥ずかしくて、それまでなら言われなきゃしなかった勉強を自発的にするようにさえなった。まっ、吉田さんの受験が終わった後は、僕もそれまで通り、言われなきゃしなくなりましたけど、吉田さんとずっと遊んでたから。
「本当に?」
 全然気にしてない様子の吉田さんは、吉田さんのお母さんから貰ったケーキの品定めをしていた。
「うん、ホント。所で、ガナッシュケーキとミルフィーユ、どっちが良い?」
「ガナッシュ……って、おやつの話はどうでも良いですよ、吉田さん、あんなに頑張ってたじゃないですか!」
「まあ、努力が報われない事ってよくあるよ。例えば……なおが毎日飲んでる牛乳のこととか」
 牛乳は確かに無駄な努力かなと思う。遺伝子が悪いんですよ、遺伝子が。うちの両親、二人ともちっちゃいから……って、そう言う話は本当にどうでも良かった。僕の身長と違って吉田さんの勉強は報われるはずの努力のはずだったのだから。
「受からなかったもの仕方ないじゃん? なおが落ち込むことないって」
「だって、悔しくないんですか?」
 僕がこんなに悔しいのに、どうして吉田さんは悔しくなさそうなのだろう?
「まあ……悔しいっちゃー悔しいかな?」
 こっそり僕のガナッシュのチョコクリームを指先で舐め取っている彼女の姿に、悔しいという感情は全く見えなかった。
「あっ、こっちも美味しい、半分くれない? ミルフィーユも半分上げるから」
「吉田さん!!!」
 あまりにも吉田さんの言い方がいい加減でちゃらんぽらんで適当で、いつも通り過ぎたので、僕は大きな声を出し目の前に置いてあったテーブルを強く叩いてしまった。その反動でテーブルの上に置かれていたグラスが、涼やかな音を立て、冷たい床の上に、更に冷たいコーラをぶちまけていった。
「ちょっとクリーム舐めたくらいで……なお?」
 僕の顔を覗き込む吉田さんの瞳が、僕の視野の中で歪んでいく。
「ちょっ、ちょっと、なお、落ちたの私、私だって!!」
 理由も判らず僕は泣いていた。

 Side:貴美小学生(卒業直前)
「マズッたかなぁ……」
 大声で泣き出したなおは、私の母に連れられ家へと帰ってしまった。久しぶりの一人きりの夜、こんなに広かったかなと思うくらいに部屋が広い。
 なおは、意外と良く私の事を見ていてくれていた。当てつけ代わりに勉強に打ち込んでた私をずっと見守っていてくれていた。だからこそ、私の努力が報われなかった事への憤りと、それで居て私が平然としていた事に対する怒りというか戸惑いというか、その辺の訳わかんない感情、そんなのでグチャグチャになった結果があの大泣きだったのだろうと思う。それは嬉しかった。
「あぁ……どーしよかな……」
 なおを送り返したその夜、私は久しぶりに机の前に座って、その奥に隠してあったお守りを取り出して見つめていた。視野の端にはなおの部屋が遠くに見えている。電気のついていない暗いなおの部屋、なおは寝てしまったのだろうか? それとも他の部屋にいるのだろうか?
 大声で泣いてしまったなおには悪いが、なおが泣く必要は微塵もなかった。もちろん、私の問題なんだから、最初からなおが泣く必要なんてない。しかし、それ以上になおには泣く必要がなかった。
 なぜなら、私はあの日、答案を白紙で提出しちゃっていたから。私が努力を最後の最後で放棄したから、努力は当然のように報われず、答案用紙を提出した時点で不合格は決まっていたのだから、私がショックを受けるはずもない。合格してた方が驚き。
 そんなことで泣かせてしまった罪悪感はかなり重たい。ベッドに入って眠る気にも、お風呂に入ってリラックスする気にも、もちろんゲームをする気にもなれず、私は受験当日から座っていない椅子に、久しぶりに座った。
 受験前日の夜、あの時もなおのくれたお守りを見つめていた。そして、なおの言った『頑張ってください』の言葉の意味を考えていた。
 頑張れって事は受験に合格しろって事で、合格しろって事は私になおとは違う学校に行けって事。すなわち、私に居なくなれって事? なおがその気なら、私にも考えがある。意地でも奴のそばに張り付いて居てやる! 寝るまで考えた私の結論はこれだった。まあ、若かったって事よね、小学生だし。
 受験の当日、私はそのお守りを机の一番奥に片付け、会場には持って行かなかった。ついでに、鉛筆と消しゴムも。
 桂聖の受験問題は簡単だった。いや、ホントに。最初から真面目に受ける気もなく、鉛筆の一本すら持って行ってない私は、回りの緊張なんてどこ吹く風だった。小学校のテストの時間よりも落ち着いた気分で、配られた問題用紙を眺め、そして、一応は頭の中でその問題を解いていた、暇だったから。暗算では解けない算数の問題は無理だったが、その他は正解不正解こそ判らないが、時間中に八割方、答えを見付けることができた。真面目に受けてたら、受かっていただろうか? その答えだけは、大学生になった今も知りたいと思う。
 小学生という子供でも子供っぽいと思う意地の張り方をした結果が、なおを泣かせることになった。それが――
「どーしよぉかなぁ……」
 の、連呼に繋がっていた。知らん顔をしちゃっていようか……それとも、正直に全部話して、『だから、なおが泣く必要なんてなかったんだよ、ごめんね』といつもの調子でへらへら笑っちゃおうか……
 知らん顔をしていたら、なおも忘れてケロッとしちゃっているだろう、元々、なおには関係のない話なのだ。しかし、それが出来るほどなおの涙は軽くなかった。でも、正直に言ったら……
「絶対に怒るよね……なお」
 火を見るよりも明らかだと思う。
 こんな事になるんなら、受験、真面目に受けとけば良かった。その結果合格したって、別に寮に入ったりする訳じゃない。たかだか、四つか五つ向こうの駅まで電車通学するだけじゃん、別に卒業するまで会えないわけでもないのに、なーんで、あんな妙な意地を張ったんだろうな、私は。馬鹿か私は? ……馬鹿だよねぇ……
「だーーーもう、ホント、どーしよう」
 私は結局、何十回も『どうしよう』を連呼し徹夜してしまった。そして、翌日には普通の顔をしてなおの家でテレビゲームをやっていた。

 Side:直樹中学生
 僕らの間で、中学受験の話は触れてはならない話題になっていた。僕としても、吉田さんの前で大泣きしてしまったことは恥ずかしい記憶でしかないし、吉田さんも……少しは気にしてるのかな、そこはよく解らない。
 しかし、そう言う話題に触れるのが好きな人って言うのはどこにでも居る。これが他の人だった場合、一番に触れちゃうのが吉田さんだったりするので、そう言う人を一概に責めることも出来ない。自業自得って言うんでしょうね、こういうの。
 触れられて素直に恥ずかしがりでもすれば、かわいげがあるのだろうが、吉田さんはそう言う人ではなかった。
「で、あなたになんの関係があるわけ? その話。用がないんなら消えてくれる?」
 こんな感じに返していた。これはそれまでの吉田さんの性格じゃないと思った。吉田さんは、弄るのは大好きだけど、弄られるのは大っ嫌いって言う難儀な性格をしてはいる。それと、同時に『やられたことは十倍返し』という、もっと難儀な性格でもあった。だから、この場合、普段の吉田さんなら、相手の言葉は聞き流して、相手の弱みを捜して弄り返し玩具にする。弄られて『どっかいけ』なんて言うのは、吉田さんにとっては敗北宣言にも等しい。対吉田さんイジラレ歴十年の僕が言うんだから間違いない……涙出て来ちゃった。
 中学での第一声を『消えてくれる?』にしちゃった吉田さんに話しかけるのが、クラスで僕一人になるのは時間の問題だった。もう、完全に浮いた存在だった。最初の方こそ、小学校時代の友達とかが声を掛けてくれては居たものの、吉田さんがクラスで浮いていることを知ると、少しずつ、潮が引くようにいなくなっていった。引き留めることは出来たと思う。しかし、吉田さんはそう言うことを一切しなかった。
 この時期の吉田さんは凄くぴりぴりしていた。喧嘩をするとか言うんじゃなく、僕以外の人との接触を最小限にしようとしていた。話しかけられても最小限で会話が終わるような言葉を選んでいたんだと思う。口癖は『あなたに関係ない』、僕には一度も言わないのに、他の人との会話には必ず出てくる……その他の人には学校の先生まで含まれていた。
「吉田さん、良くないですよ、そう言う態度」
 二学期の中間試験期間中のこと、試験期間中だというのに、吉田さんは僕の部屋でゲームをしていた。僕が真面目に勉強している部屋で、お構いなしでゲームをやっている。一応、イヤホンを着けているところに中途半端な気の使い方を感じる。
「……何? ごめん、聞こえなかった」
 片方だけイヤフォンを外し、吉田さんは机で勉強している僕の方へと振り返った。
「だから、試験期間中なのに勉強しないでゲームしてるところとか、学校の先生に『関係ない』って言っちゃうところとか、良くないですよ」
「勉強はやらなくても必要なだけの点数は取れるし……先生の方は、面倒くさいんよ」
 実際吉田さんは勉強が出来た。中学受験のためにあれだけ勉強していたのだから、小学校で習ったことはほぼ完璧に頭の中に入っていた。だから、先生達も当初は吉田さんに凄く期待と目をかけていた。その期待に応えるように、一学期の中間試験はほとんど勉強らしい勉強もせずに学年六位。しかし、一学期の期末では四十位。僕の学年は二百人くらいいたから、悪い方ではない。でも、下がってる。勉強しないで成績が下がっている吉田さんに、先生達は随分と気を掛けていた。呼び出して注意をしたり、悩みを聞こうとしたり、しかし、そのたびに吉田さんは『必要なだけは点数を取ってます、迷惑は掛けません』ですましていた。
「でも……」
「大丈夫、これでもなおよりかは上だから」
「中の上の僕より上は自慢になりませんよ」
「私にとってはそれで十分なんよ……邪魔しないから、気にしないで勉強してて」
 そう言うと、吉田さんはまたゲームへと意識を集中させ始めた。確かに、部屋の隅でゲームをしているだけだから、邪魔にはならないけど……
「はぁ……」
 大きなため息をついて、僕も勉強へと意識を集中させ始めた。
 吉田さんは結局、この試験期間中、何回か僕が解いた問題集を奪い取り、それを勝手に採点すると言う変な勉強方法だけをやって試験に臨んだ。そして、やっぱり、僕よりも成績は良かった。納得いかない。
 こんな調子の一年はあっという間に過ぎ去った。
 二年生一学期初日、クラス替えの日。この日、僕は嫌な予感がしていた。
『仲の良すぎる生徒同士は別のクラスにする』
 こんな噂があったからだ。より広い友人関係を作らせるためという教育的配慮と、仲の良すぎる友達同士がつるんで悪さをされては溜まらんと言う管理上の都合により、こういう事を考慮に入れてクラス替えをするという噂が流れていた。これが事実なら、吉田さんと僕は確実に別のクラスになる。今の吉田さんに『広い交友関係』なんてものはなかったし、僕も吉田さんに引きずられる形で他の友人は数人しかいなかった。吉田さんの成績が一学期中間の六位から上の下くらいにまで落ちていたことと、しょっちゅうお互いの家に泊まっているのも、悪さ一歩手前的に思われている。吉田さん、この時点ですでに二十歳の三島さんより、胸が大きかったんですよ。ホント、僕が成長しない分、吉田さんが二倍成長して居るんじゃないか、と本気で考えた時期もあった。
 例の噂が事実だったのか、それともただの偶然だったのか、それは誰にもわからない。ただ、別のクラスになったという事実だけがそこにあった。
「まっ……仕方ないよね、くじ運みたいなものだし」
 吉田さんの表情は至って冷静だった。いつも通りにちゃらんぽらんで適当な口調でそんなことを言ってるだけ。
 この時、僕は事態をかなり甘く見ていた。今の浮いた状態のクラスから、僕が居なくなったら、吉田さんはそれこそ、本当に誰とも口をきかなくなるかも知れない。そう言う不安と同時に、最初から僕の居ないクラスに入れば、いやでもそこで人間関係を作らざるを得なくなるだろうと言う期待も持っていた。
 しかし、吉田さんの状態は僕が想像していた以上に悪かった。
 翌日、吉田さんは学校をフケた。
 「今日、貴美ちゃん学校に行ってた?」
 そんなことを母に言われたのは、午前中だけの授業が終わり、帰宅して、お昼を食べようとしたときだった。
「もちろん、いっしょに登校してましたけど?」
「でも、貴美ちゃん、九時くらいに家の前であったわよ」
 そんなはずはない。吉田さんと僕はその日の朝もいっしょに校門まで登校して……そこで別れて、帰りも校門で待ち合わせ……
「まさか……」
「校門から引き返したんじゃないの?」
 母が僕の考えを代弁してくれた瞬間、僕は家を飛び出した。
 
 Side:貴美中学生
 あの日、中学受験のことでなおを泣かせた日から二年の初日まで、私は一杯一杯になっていた。
 まず、私はあの日から三日ほど寝ないで、テストを白紙で出したことをなおに打ち明けて謝るかどうかについて、ずっと悩んでいた。悩みながらも表面上普通の生活が出来る辺り、器用に出来てる。最後の一日は流石に悩んでんだか、夢を見てんだか判らないような状態だったけど。
 で、四日目の日曜日、朝から爆睡して夜中に目覚めて、最初に思いついたことがこれだった。
「私はなおが好き」
 好きだから、他の中学へ行くって言うのを引き留めて欲しかったわけだし、遊べなくなるって言ったときに寂しがって欲しかったし、応援されるのが無性に嫌だった。考えてみれば、凄く単純な話だった。こんな事に三日も徹夜で悩んでた私は本当に馬鹿だ。
 こうなると、入試を白紙で出したことは絶対に言えなくなった。言えば、話している間に告白になる。この頃は一応、恥じらいってものを少しは持ち合わせていたんよ、腐女子でもなかったし。
 最初の一週間くらいは、まあ、普通の初恋に悩んでる思春期初っぱなの女の子くらいだった。しかし、段々と好きな人にあの話を黙っている事とその事でなおを泣かせた事に対する罪悪感が大きくなってきていた。そして、中学に入学する頃にはその罪悪感のせいで『絶対に告白しても振られる』と思いこんでいた。
 罪悪感を下ろすために謝罪すれば告白になる、告白すれば振られる。精神的な袋小路の中で私は入学式を迎えた。
 とりあえず、なおと同じクラスになったことには安堵していた。安堵はしているものの、やっぱり袋小路に潜り込んだ精神に他のことを気にする余裕は全くなく、小学校の友達に声を掛けられても面倒くさいとしか思えなかった。そして、極めつけの台詞を吐いてくれたドアホウ様がいた。
「あれ、吉田さん、なんでこんな所にいるの? 私立受けたんじゃなかったっけ?」
 受けましたよ、ええ、受けましたとも、受けるだけ受けて白紙で提出して帰ってきて、不合格になった挙げ句、大好きななおを泣かせた馬鹿になんの用があるんだ? と、怒鳴らなかっただけえらいと自分を褒めてあげたい。
「滑っただけ……で、あなたになんの関係があるわけ? その話。用がないんなら消えてくれる?」
 その代わりに出た言葉がこれだった。あまり変わらないかも知れない。そんなに大声で言ったつもりはなかった。つもりはなかったけど、クラス中全部に聞こえる程度の声ではあった。ピッキーンとクラス中が凍り付くような音が聞こえた。
 その上、最初の中間試験でクラス一位、学年六位を取ってしまったせいで、私のクラスでの評価が確定した。勉強は出来るけど何を考えているか判らない人、高見君以外が話しかけてもまともな返事すらしない恐い人。ついで他のみんなを見下してる人。
 『腫れ物』
 私はこのポジションに座ることになった。
 一応反省はした。でも、他の人に対応する余裕はなかったから、もう一個の方は目立たないようにしようと思った。当てつけでやっていた勉強を止めただけで、期末は上の中くらいになった。なったらなったで、今度は教師があーだのこーだの余計なお世話を焼き始める。私は自分の恋愛問題だけで手が一杯なんだから、余計な雑事を増やして欲しくなった。しかも、クラスメイトはやらないことを当てつけだと受け取ってくれ、ますます腫れ物扱いがひどくなった。
 この辺りで、私は何もかも面倒くさくなって、『もう、なおと一緒にいられたら他はどーでもいい』という捨て鉢な考え方になっていた。だから、小学校の友人が離れていくのも引き留めなかったし、勉強も必要最低限度のことしかしなかったし、教師への対応もおざなりだった。
 そんなことをしているうちに、私は目出度くクラスの空気になって、なお以外誰もそばには寄ってこなくなった。寄ってきてくれないおかげで、私は存分に袋小路の中であれやこれやとぐつぐつと煮詰まって空焚きになることが出来た。
 そして付いたあだ名が『高見のダッチワイフ』ちょっと笑った。ホント、良くできたあだ名だと思った。喫茶アルトで働きだしてから付けられた『喫茶アルトの巨乳の方』なんかよりよくできてる。こっちなんか、見たまんまじゃん、もっとひねらないと中学生以下だよ。それに、ダッチでもグッチでもビニール製で口をポカーンと開いた人形でも、告白すら出来ない私にとって、お嫁さん扱いはちょっと嬉しかった。
 しかし、今度はなおが私とつるんでいるせいでクラスで孤立し始めた。なおは基本的に人当たりが良い。普通にしていれば十分な数の友人が作れる。なのに、こんな腫れ物とつるんでいるせいで孤立しかけている。悪いのは全部私。だけど、その時の私になおから離れるなんて事は考えることすら出来なかった。むしろ、こんな腫れ物の私とつるんでくれるなおのことを余計に好きになっていた。
 ここまで精神的に追い込まれているのに、私はなおの前では小学校の頃と全く同じような態度をし続けた。のちのアルバイトで役立つ『営業用人格』の基礎ができはじめていた。この時の状況に比べれば、嫌な客にお茶出すくらいなんてことはない。給料のうち。
 そのころの私にとって、なおを泣かせたことも、クラスで孤立していることも、なおも引きずられて孤立していることも忘れて、なおの横でピコピコとゲームをやっていることが何よりの幸せだった。いや、自分でもゆがんでるって事は自覚してる。
 そして、なおがちょっとでも離れると際限なく煮詰まっていくという生活をしていた。
 そんなストレスだらけの一年はあっという間に過ぎ去り、ついに破綻する日がやってきた。
 私はなおと別のクラスになった。
 それを知ったとき、私は二つのことを考えていた。なおと離れることの失望感と、これ以上なおが孤立せずに済むという安堵。始業式の後、私は何をしていたか良く覚えていない。ただ、母から聞いた話だと、相変わらずなおの隣で普通にピコピコとゲームをし、なおが帰った後は床の上で胡座をかいたまま、食事もしないでゲームのデモ画面を一晩中眺めていたらしい。
 そして、翌日、私はなおと一緒に校門まで行って、そこから家に引き返していた。帰ってきたとき、昨日の私の様子を知る母は何も言わず、さっさと寝なさいと言ってくれた。出来の良い母親を持って私は幸せだ。ただ、眠ることは出来なかった。授業が終わるくらいになおを迎えに行かなくてはならない。行かないとばれちゃう。
 家の前でなおのお母さんにあったのは失敗だった。これでなおのお母さん経由でなおに授業をサボったことがばれる。なおの性格上、知ったら私の部屋に怒鳴り込んでくる。元々、食事が終わったら私の部屋で遊ぶ約束をしてたのだし。
 私はどこで怒鳴り込んでくるなおを待とうかと少し迷った末、テレビの前で胡座をかいて待つことにした。

 Side:直樹中学二年生
 僕は台所にいた吉田さんのお母さんへの挨拶もそこそこに、二階にある吉田さんの部屋へと駆け上がっていった。もちろん、今日、学校をサボったことを問いただすためだ。いくら何でも、この行動は突飛すぎる。
 部屋で僕を出迎えてくれたのは、テレビの前に座った彼女の背中とその正面のテレビの中でえらそうに人生相談をやってるみのさんだった。
「吉田さん! 何、やってんですか!?」
 振り向きもしない吉田さんに軽いいらだちを覚え、僕は必要以上に大きな声を出してしまった。
「みのの人生相談聞いてんの……役に立たなくて面白いよ」
 彼女は相変わらず振り向きもしない。でも、声は震えているような気がした。
「どうして授業をサボったりしたんですか!?」
 いらだちのままに言葉を吐き出す、こんなに怒ったのは久しぶり……初めてかも知れない。
「……学校、行く必要なくなっちゃったから」
 どんな答えが返ってきても僕の想像は超えていただろうと思うけど、その答えは飛びっきりに想像を超えていた。
「どういう事!」
 だから、反射的にこう叫んでいた。
「なおと別のクラスだから」
 その答えは、想像通りだった。他に考えられる理由はなかった。春休みの前まで普通に学校にも行っていたし、春休みから昨日までの間で変わったことと言えば、この一点しかない。
「たかだかとなりのクラスになっただけでしょ!?」
「たかだか歩いて一分の隣のクラスだろうが、駅四つ向こうの私立中だろうが、なおのとなり以外は嫌!」
 そう言って振り向いた吉田さんの瞳からは、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。
「私ね、なおにずっと嘘ついてたよ。私、受験受けなかった。白紙で帰って来ちゃった……怒ったっしょ?」
「えっ……嘘……」
「嘘じゃないよ、ホント。ごめんね、せっかく、なお、応援してくれて、滑ったとき、泣いてくれたのにね。それ、全部、無駄だったんよ」
「でも……あんなに努力して……じゃぁ、どうしてあんなに勉強を……」
「なおが頑張れって言ったから……なおが『寂しくなる』って言ってくれなかったから……当てつけだよ。なってなかったみたいだけど」
「だって、友達でしょ? 別の学校行ってても、隣の家に住んでて……毎日夜に遊んだりして……」
「でも、私は言って欲しかったんよ!! 寂しくなるねって!! そしたら、お姉さんぶって、『馬鹿だね、なお。帰ってきたら沢山遊んであげるよ』って言えたんよ!!」
 震えていた声が絶叫に変わり、こぼれていた涙が更に大粒なものへと変わっていった。
「そ……そんなのって……」
「なんで、なおはたった一言、寂しくなるって言ってくれなかったの? どうして? 私と一緒じゃなくても寂しくないの?」
 僕はいつの間にか、泣いている吉田さんの傍に座り込んでいた。
「そりゃ……寂しいですよ……」
「じゃぁ、なんで言ってくれなかったんよ? 言葉にしないと伝わらないことは沢山あるよ?」
「だって、子供の頃からずっと一緒で……僕を色々と引っ張り回してくれる人で、これからもそうだって……ずっと……」
「でも、学校が違うんよ? 私の知らない友達を作って、知らない事を知って、それだけでも寂しいよ……なおぉ……」
 吉田さんはそこまでを言うと、僕の手をギュッと強く握って、わんわん泣き出してしまった。僕はたった三十分の間に色んな事を知りすぎて、もう、それ以上何も考えられないようになってしまってい、ただ、子供のように泣き続ける彼女の頭を見つめていた。
 それからしばらくして、ひとしきり泣いた吉田さんは、コテンと眠りに落ちてしまった。泣き疲れてしまったのと、後で聞いた話だけど吉田さんは昨日の夜、ほとんど寝ていなかったらしい、いや、ここ一年、夜はあまり眠れていなかったようだ。吉田さんには悪いけど、寝てくれて助かったと僕は思っていた。吉田さんの言ったことをもう一度良く考える時間が出来たから。

 Side:貴美中学二年
 私は言いたいことを全部言えたのと思いっきり泣けたおかげで、久しぶりにゆっくりと熟睡することが出来た。この一年、何時にベッドに潜り込んでも色んな事を考えてしまって、体が限界を迎える深夜になってようやく眠れるという日々を送っていた。ちょっと、中一にはきつい生活。成長期の一年にこういう生活してて、良く、こんな立派なスタイルに成長出来た物だ。優秀な遺伝子に感謝。
 その日、目が覚めたのは日もどっぷりと落ちた夜の九時。起きたとき、目に付くところになおは居なかった。
「振られちゃった……」
 思ったよりかはショックは少ない。もしかしたら、これからきついのかも知れないけど、もう、何もかもどうでも良かった。とりあえず、せっかく眠れそうだし、もう一眠りしよう。パジャマに着替えてベッドでゆっくり。今夜は朝まで熟睡できそうだ。もう、何も考える必要はないんだから。
「あっ、起きたんですか?」
 もうちょっと遅く帰ってきたら、着替え中に遭遇というコメディおきまりのパターンだった。でも、残念なことに、私はまだ服を脱いでなかった。パジャマを捜そうとしてたところだったのだ。
「帰ったんじゃな……ないんだ」
 いくら何でも本物の生娘だった私に、なおの前で脱ぐ勇気は持ち合わせてなく、立ち上がり掛けていた体をもう一度床に座らせた。
「食事してきました。待ってたんですけど……」
「そっか……」
「食べないんですか?」
「欲しくないよ……なおは食べたの?」
「ええ、少し」
 そう言ってなおは私の前の床に座った。お互いにお互いの顔をじっと見つめ合う。私の顔、目が腫れてたり顔がむくんでないだろうか……むくんだ顔で振られるのはいやだな……せっかく、普段はそれなりの顔なのに。
 しばらくの間、二人とも何も言わなかった。なおは何か迷っているような様子だったし、私に言いたいことはもう残ってなかった。さっさと振って欲しいと思う反面、何でも良いから一緒にいられることに幸せだと思っていた。意外にしつこい。
 寝たときには着けたままだったテレビはすでに消えていて、カチンカチンと規則正しく刻まれる秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。
 十分くらいの沈黙が過ぎた。最初に沈黙に耐えきれなくなったのは私の方だった。良く考えたらまともな告白をしてないな、と思ったんですることにした。
「ねえ、なお、私はなおが好き。なおは?」
 あぁ、言った言った、清々した。さて、振られて寝るべ。

 Side:直樹中学二年
 僕は吉田さんの寝顔を見ながら、吉田さんの言ったことをずっと考えていた。要するに吉田さんは僕のことが好き、それも、幼なじみじゃなくて、女としてって奴。漫画の本じゃ、そう言うの読んだことあったんだけど、まさか自分がその対象になるとは考えてみたこともなかった。ちなみに僕の初恋の人は、五年生の時、隣の席に座っていた子。『ごめんね、高見君、女の子じゃん?』の一言で見事に砕け散った。その時、吉田さんは指さして窒息するまで大爆笑してくれた。
 その人がまさか……ね……
 僕は吉田さんのことを恋愛対象だと思ってみたことはただの一度もなかった。さっきの女の子の言葉を借りれば『吉田さん、男の子じゃん?』である。泥団子食べさせてくれたり、ろくでもないいたずらに付き合わされたり、女の子に振られたときは指さして笑ってくれたり……
 でも……と、吉田さんの寝顔を見る。まだブリーチしてなくて黒いままの癖のある髪、体つきも女性らしくなってるし……女の子だったんだなぁ、と思う。思ったら、思いっきり意識してしまうのが悲しい男の子。これが、後に『なおは私の顔と胸でつきあってる』と言われるきっかけ。
 僕にとっての吉田さんは、好きか嫌いかの二者択一なら、好きという言葉しか選べない人であることは間違いない。でも、その好きが一年も悩み続けてるほどの好きと釣り合いが取れる好きとは違うような気がする。それを素直に言えば、振るってことだよね。振るの? 僕が? 吉田さんを? 振ったらどうなるんだろう……また、幼なじみに戻れるかな? また、満面の笑みで僕の手を握って何処かに連れ回して、ろくでもない遊びに誘ってくれるだろうか? そうしてくれるんなら、嬉しい……
 けど、それって人として最低だよね。あなたが僕を男としてみてくれてるのは判りました、でも、僕はそれに答えられません、でも、今まで通りに遊んでください……客観的に見て最低だと思う。それに、そんなこと、出来るはずがない。僕も吉田さんももう無理。
 じゃぁ、吉田さんの気持ちを受け入れれば良いんだろうか? そりゃ好きだけど……本当にこんなに思ってくれてる人とつきあえるくらいに好きなのかな……僕。
 本当に吉田さんが寝ててくれて助かった。いつ起きるのかは知らないけど、しばらくは寝てて欲しい。受け入れるにしても、振るにしても、少なくとも十分に悩んでおくのが幼なじみ最後の役割なんだろう。受け入れれば明日から恋人だし、振れば……ただの知り合いになると思う。
 ただの知り合いになるんだ……振ったら。いやだな……それ。凄く嫌だ……もう、遊んでくれないのかな? 隣でゲームしたり、家に泊まったりもしなくなっちゃうのかな? なおって呼んでくれないのかな? 手を握って駆け出してもくれないのかな? 嫌だな……凄く嫌……寂しいよ……吉田さん……
 この十年くらいの関係で起きた色々な思い出が、まざまざと思い出されてきた。その全部が、もう、これからの先の人生ではないのかと思うと、無性に寂しくて、苦しくて、そして何よりも、嫌だという感情しか思い起こせなかった。
 そうしていると、規則正しく上下に揺れる吉田さんの胸が、僕の視界の中で大きく歪み始めた。ポタポタとこぼれ落ちる涙。
 僕も吉田さんが好き……吉田さんが隣に居ないのは寂しい……うん……大丈夫……吉田さんの好きと釣り合いが取れるくらいの好きがあった……ごめんなさい、吉田さん……僕、吉田さんが隣にいるのが凄く当たり前だと思ってました。だから、腫れ物扱いだった吉田さんの傍にも居たんです。それが凄く当たり前だと思ってから。
 起きたら、僕の方からはっきりと告白しよう。今更遅いかも知れないけど、告白するから、早く起きてください。
 僕はじっと吉田さんが起きるのを待っていた。
 それから一時間後、悩んでたのはどれくらいは判らないけど、そろそろ、夕方って時間。流石に正座して待ってるのはきついな、って思い始めた頃、吉田さんがむっくりと起きあがった。
「……吉田さん、僕も吉田さんが好きです。付き合ってください!」
 顔も見ないで、なんだか土下座してるみたいな感じでの告白。凄く様にならない。僕らしいけど……
「……おしっこ……」
 えっ?
 吉田さんは土下座してる僕の隣をすり抜け、部屋を出て行った。そして数分後、戻ってくると先ほどと同じように、床の上で小さく丸まってすーすーと気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
「ちょっと! 大事な話があるんだから、起きてくださいよ!!」
「なお、うるさい……後で遊んであげるから、なおも寝なよ……」
 揺り動かそうが、頭を叩こうが、吉田さんはてこでも起きない。しかも、うるさいって……また、引っ込んでた涙が出そう。
 しかも、吉田さんはこのあと三時間も眠り続けた。吉田さんの両親は、吉田さんが寝てないのを知っているからそのまま寝かせてやってくれというけど、僕の両親のほうは十五分ごとに僕を食事に呼びに来る。仕方ないから、吉田さんの両親に、起きたら呼んでくれるように言って家に帰って食事をした。
 物事には勢いというものが必要な事がたくさんある。特に告白なんて、勢いづけなきゃやれない。そして、今回の場合、勢いづけてやったら『おしっこ』と『うるさい』が返ってきた。しかも、食事をして、もう一回覚悟を決めなおそうと思ったら、吉田さんはすでに起きて何かしようとしてた。クローゼットのほうへと行きかけてたから、もしかしたら、着替えて本格的に寝るつもりだったのかもしれない。また、『うるさい、寝る』とか言われたら、僕は再起不能だ。
 そんなわけで、僕と吉田さんは正座して見詰め合って居る。泣き腫らした真っ赤な目と寝起きでむくんだ顔、美人が台無しだと思う。僕はその顔を見ながら、さぁ、言うぞ、今、言うぞ、次の瞬間こそ言うぞ、一生懸命タイミングを計っていた。
「ねえ、なお、私はなおが好き、なおは?」
 そして、また、先に言われた。しかも、吉田さんは自己完結したすっきりした顔をしている。仕方ないので僕は……
「僕は……さっき言いました。吉田さん……うるさいって言いました……」
 今言おうと思ったのに先に言うんだもん、な〜!!!

 Side:貴美中学二年
「ねえ、なお、私はなおが好き、なおは?」
 いや、もう、ホント清々した。せっかくだから、綺麗に振って欲しい。綺麗に振ってくれたら、また、明日から幼なじみに戻って、今まで通りに普通の生活を演じることが出来る。一年も続けられたんだから、あと十年くらいは大丈夫。
「僕は……さっき言いました。吉田さん……うるさいって言いました……」
 ……何を? しかも、なおは怒ってる。私が告白した瞬間、一瞬、あって言うような表情を見せた途端、じっと見ていた私から顔を逸らして、電気の消えてるなお自身の部屋へと視線を向けた。なおが話してる最中に視線をずらしたら、大抵は怒っている証拠。告白して、怒られる、これは一年悩み抜いたシナリオの中にも存在してない展開。
「……どういう事?」
 順序立てて、懇切丁寧に説明してくれた。なるほど、私はなおの一世一代の告白を寝ぼけて受け取って、綺麗さっぱり忘れていた、とそう言うわけか……そりゃ、なおも怒るよねぇ……そうなんだ……告白してくれたんだ、覚えてないのが残念だよね。ところで……
「……告白したの?」
「……はい」
「誰が、誰に?」
「僕が、吉田さんに」
「……『ごめんね、高見君、女の子じゃん?』の一件じゃないよね」
「まだ覚えてたんですか、それ……」
「うん、一生忘れない」
 あの子があー言う振り方してくれてなきゃ、私は失恋することすら出来なかったわけだから、一生忘れられない。指さして笑ったのも楽しかった。
「でも、僕が吉田さんにした告白はすでに忘れてるんですよね」
「忘れるどころか、聞いてすらない」
 あっ、なお、泣きそう。でも、今、泣いてもあまり罪悪感はないかな。感じた方が良いのかも知れないけど。
「最低ですよね、女性として」
「こんなのでも良いわけ?」
「……考え直しても良いですか?」
「ダメ」
「はぁ……もう良いです、取り消す気もないですから……じゃぁ、僕、今夜は帰って寝ます」
「一緒に寝て良いよ、恋人同士だし」
「中学生だって事、時々で良いんで思い出してください」
「冗談、冗談、お休み、なお」
 三割くらいは本気。
「はい、お休みなさい」
 全身に虚脱感を漂わせるなおを見送り、当初の予定通り、着替えてベッドでゆっくりと眠ることにした。でも、今夜は眠れそうにないと思った。実際、私はベッドの中でまんじりとも出来ずに夜明けを迎えた。

 Side:直樹中学二年
 翌日、吉田さんは普通に学校へと行った。しばらくの間は相変わらず浮いた存在だったけど、少しずつクラスに馴染む努力をし始めめた。と言うか、孤立しようとする努力を止めた。元々、物怖じしない人だし、小学校の頃はそれなりの友人も居たんだから、すぐに友達も出来ると思った。そして、数日後……
「なお、これ凄いんよ、ちょっと見て!」
 そう言って吉田さんが僕に見せてくれたのは、やけに線の細い男の人同士が裸で抱き合ってる漫画だった。
「……なんですか! これ!?」
「凄いよね、綺麗だよね、格好いいよね、隣の席の子が貸してくれたんよ」
 吉田さんが中学最初に作った友達は腐女子さんだった。二番目と三番目と四番目も腐女子さんだった。五番目に出来た友達は二ヶ月後には腐女子さんになっていた。あぁ、もう、私立行っててくれれば良かったのに。

 Side:現在十秒後
「ほら、私、スタイル良いでしょ? それでなおをだまくらかして、肉体関係結んで、それを盾に付き合わせてんの」
 始まったタカミーズ結成秘話はものの十秒で終わった。
 あまりにもあんまりな貴美の発言に、良夜と美月はもちろん、アルトまでもが手に持つストローを落として固まってしまっている。
「違うし、全然違いますし!! 三島さん、信じてるでしょ?! 嘘ですから、口から出任せですって! 良夜君も、うわぁ、こいつサイテーとか言いそうな顔してんですか?!」
「そろそろ仕事しようかな……ほら、フロアーチーフもいつまで固まってんよ?」
「吉田さん、火を着けるだけ着けて知らん顔していかないでくださいよ!」
 狼狽する直樹を見捨てて仕事に戻ろうとする貴美の手を、直樹は半泣きになりながら強く握りしめた。
「えぇ、大筋はあんなもんじゃなかった?」
「かすりもしてません!!」
「まっ……恥ずかしいじゃん? やっぱり、ね」
 貴美はそれだけ言って、直樹の頭を二つほど叩くと、いつもの営業人格に戻ってガラガラの店舗からキッチンへと入っていった。取り残されたのは、真っ赤な顔をしてあれやこれやを想像している美月と、信じないでくださいを連呼する直樹、アルトと良夜はそんな二人とキッチンに帰っていく貴美を呆然と眺めていた。
「結局、第三の七不思議が決定したわね」
「アレより恥ずかしい過去ってなんだろうな……」
 こうして、『喫茶アルトの巨乳の方はなんであんなチビと付き合ってるのか?』は貴美が喫茶アルトでウェイトレスを続けている間、期間限定の『第三の七不思議』に数えられることとなった。

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