初体験
初体験、それは甘く甘美な響き、良夜が十八になった今でも知らない物。二十歳すぎても童貞だと、ヤツとの付き合いが長くなるらしい、気をつけよう。
貴美と直樹はそれを高校三年の夏に終わらせた。中二からつきあい始めて高三だから、意外と奥手って事になる。ファーストキスはつきあい始めて三日目でやった。この間、五年。直樹が真面目で奥手だった所為。貴美は『なおがしたいって言い出したらしよう』と思いつつ、ずーっと待っていた。待っていたら五年経っていた。
高校生になるまでは、普通に待っていた。いや、流石に中学生じゃ早いかな、と言う気持ちもあった。
そんなわけで、高校になってから待つだけではなく、こちらからのアプローチもしてみた。
まずは、二人でテレビゲームをしているとき、普段よりも少し引っ付いて座ってみることにした。少しずつ、その距離を小さくして行ってみた。しかし、これは戦略的に間違いだった。その『少しずつ』があまりにも『少し』過ぎたので、距離の縮まりを直樹が気がつかなかったのだ。最初から、一気に縮めていたら気がついていたかも知れない。それと、元々、ゲームしているときは常に隣に座っていたのだから、意味があまりない。
他にもエッチな本を直樹の目に付くところにも置いてみた事もあった。これも彼女は作り上げたキャラクターが良くなかった。直樹はその表紙を見ただけで『また、男の同士のエッチな本? 相変わらず気持ちの悪い本、読む人だな……』と、決して手に取ることがなかった。幼なじみ同士の男女がそう言う関係になる本もあったのだが、それを直樹が手に取ることはついになかった。表紙に女の子――実は可愛いだけの男の子だったりする――が居ても、中身は男同士という本を直樹は何冊も目にしていたのだ。もちろん、所有者は貴美かその友人。
続いて、時々、スカートの中をちらちらと見せてみた。これも彼女のキャラクターが良くなかった。彼女は元々、スカートなのに胡座をかいて座る生活をしていた。だから、直樹は貴美のスカートの中が見えても『行儀悪いな……注意したら機嫌悪くなんだよね……』としか思ってなかったのだ。後に貴美は語る『パンツ、脱いどきゃ良かった』と。それはやり過ぎなので止めとけ。
定番の業に『腕を組んでさりげなく胸を押し付ける』という手段がある。しかし、貴美はこれを使うと言うことを完璧に失念していた。なぜなら、直樹が告白の際『手を引いて走り出す吉田さんが好きでした』と言う言葉を言ったからだ。だから、歩くときには常に手をつなぎ、自分が先を歩いていた。なかなか、可愛い。
後、着替え中に遭遇という業も定番だが、こっちは十年以上もお互いの家を行き来して生活していた二人だ。片方が注意していれば、そんな遭遇はなかなかない。しかも、そのイベントは小学生の頃に済ませている。その時、貴美は直樹を力一杯折檻した。おかげさまで、直樹は自宅においても、ドアを開けるときには細心の注意を払う生活している。
こうして、彼女はこの五年間、少しずつ、慎みをすり減らし続けてきた。山の崖から崩れ落ちた大岩が、海にたどり着く頃には砂粒になっているように、彼女の慎みも僅かずつにすり減っていたのだ。そう、後に良夜が『ヤルから部屋を開けろ』と言われるようになるきっかけは、間違いなく直樹が作った物なのだ。さっさと彼が貴美とやっていれば、貴美はここまで開き直らなかったかも知れない……あぁ、それはないかもな……ヤツはそう言う女だし。そもそも、ヤツの慎みは大岩じゃなくて、握り拳大の石なのだ。
高校最後の夏休み最後の週。直樹と貴美は未だ終わらせていない宿題を、貴美の部屋で一生懸命片付けていた。もっとも、片付けているのは直樹だけ。貴美は少し前に全て片付け終えていた。今日、終わらせるべき宿題は学校で出されたそれではなく、彼女の人生、この五年間積み残し続けてきた宿題である。と、勝手に決めていた。彼女の慎みはすでにかなりすり切れている。
「……なお……数学ノルマ、済んだ?」
まずは宿題を片付けさせなければならない。直樹の性格上、この辺を終わらせておかないと言い訳に使われる。
「……もうちょっと……です……吉田さんの物理は?」
自分の彼女がそんな邪悪な計画を胸に秘めているなど、今の直樹が知るよしもない。ただ、ひたすら小難しい数式を解くことだけに必死になっていた。
「……もうちょい……」
もうちょいなのは、最後の慎みを放出するために付けるべき決心が付くまでに必要な時間である。
BGMは静かめの環境音楽、それはこの日のために貴美が調達してきたCDである。
「……なお……シヨ?」
顔も上げず、小さな呟き漏らす。視線は物理の自由落下がどうだの、等加速直線運動があーだの書いてる問題集の上を走っているが、そんなもん一切読んじゃ居ない。それどころか、視線は右から左へと動いてる。物理の教科書はもちろん横書き。明治時代に作られた本ではない。
『これで察しろ……なお……』
彼女は心の中で強く強く念じた。今まで作った十五年近い関係、それを信じた……って、誰がどう考えても無茶な要求である。こんなもん、何回もやってるカップルじゃなきゃ通用するわきゃない。ちなみに、こういう物の言い方は男の子同士がエッチしている漫画で知った。初体験のための情報をこういうところから引っ張ってくる辺り、非常に彼女らしい。
「……何をですか……」
もちろん、直樹にこんな高度な表現が通用するわけがない。今の彼にとって最大の関心事は、目の前に横たわっている三角関数と二次方程式を絡めたちょっと複雑な数式の解き方であり、それを貴美に尋ねるべきかどうか、それについて悩んでいた。
「ううん……なんでも……」
彼女の中に残った慎みを三割方放出して言った言葉だったのに、彼氏はスルーしてくれた。
『私の彼氏はなんて察しの悪い男なんだ……』
百パーセント逆恨みであることに貴美は気付いていない。
「……なお……ヤロ?」
もう二割ほど放出してみた。『シヨ』と『ヤロ』にどの位の違いがあるのか、それは作者にはわからない。ただ、彼女の中では大きく違うらしい。
「……だから……何をですか? 所で……サインとコサインってどうやったら1になりました?」
「自乗して足す……だから……上げるから……ヤロ?」
「あぁ……なるほど、これで……そっか……だから、何をするんですか?」
カキカキ……最後の一題がようやく終わった。直樹はふぅ……と顔を上げて、物理の問題集の目次を一生懸命読んでる貴美の顔を見た。
「だぁぁぁ、もう、良い。なお、セックス! ヤルよ!!」
彼女の慎みはたった今売り切れた。
「えっ、えぇぇぇぇぇ?」
まあ、普通の人間なら驚くだろう。意味もなく、恋人が『セックスする』と言い出したんだから。貴美にしてみれば、五年間、自分の中の慎みをすり切らせ続けた結果、行き当たった言葉であるが、直樹にすれば『行儀の悪い彼女が唐突にセックスを要求した』にすぎない。
すったもんだがありました。
こんな感じの誘われ方でもやってしまうのが、直樹の弱いところだと思う。まあ、健康な高校男子だからな、ヤツも……
「……吉田さん、泣いてるんですか? 痛かったですか? やっぱり……」
「……こういうとこくらい、貴美って呼ぼうよ?」
「はい……貴美さん、痛かったんですか?」
律儀に言い直し、自分よりも十五センチも背の高い恋人の体を抱きしめる。そして、貴美もその恋人の薄く狭い胸へと顔を埋めてこういった。
「ううん、痛いのは大丈夫。ただ……ヤオイ穴って、やっぱり、実在ないんだな……って思うと、涙が出ちゃった……」
「……本当に考え直して良いですか? 色々と」
「ダメ」
あー言う恋愛小説っぽい物を書いてる最中、こんなネタを考え出してニヤニヤしてました。俺はどうせこんな人間です。