海と空と(8)
 最初は一滴の雨粒だった。しかし、それが別荘の窓に一筋の線を描き終える頃には、天の底が抜けたかとでも思うような夕立と化した。まぶしかった夕焼けは巨大な入道雲の向こうへと隠れ、そのかわりに稲光が辺りを照らし始める。
 夕日が差し込んでいた浴室もあっという間に薄暗くなると、湯船につかっていた貴美の顔にも、物心両面ともに陰りが差した。照明のスイッチは脱衣所側、貴美は恨めしそうに消えたままの照明を見つめ、小さなため息をついた。
 こうなるのならば、電気を付けて入れば良かった……良く言えば締まり屋、悪く言えばケチ、そして、恐がりな自分が恨めしい。
「……でよっか……」
 トンと湯船に手をついた貴美は、水風呂直前の湯船からゆっくりと体を引き上げた。体中至る所から滴り落ちる水の玉、雷光を受けきらびやかに光るそれは、湯船からあふれ出た仲間達と共に排水口へと流れ落ち出していく。
 ぺたぺた……濡れたタイルを素足が蹴る音と水の流れる音、それだけが広めの浴室を支配していた……はずだった。
 ドン! ピシャーン!!
 静かだった浴室に雷の大きな音が響き渡れば、貴美は反射的に頭を抱えてしゃがみ込んだ。金色に近い茶髪が雷光に照らされ、更に金色へとその色を近づける。
「キャッ!! ……なおぉ……」
 小さな悲鳴と恋人の名前。大きな瞳には涙が浮かぶ。貴美は、怪談幽霊の類も駄目なら、雷も駄目な人だった。ホラー映画などで雷が効果的に使われている所為だ。普段ならば、直樹を呼びつけるところなのだが、今日は良夜や美月もいる。二人の居るところでそれはしたくない。したくはないけど、恐い物は恐い。プライドと恐怖心、それが拮抗し、貴美はドアの前にしゃがみ込んだまま、立ち上がることが出来なくなってしまった。
 そのまま、体を濡らしていた水滴全てが、蒸発するか床に滴り落ちるかするほどの時間が過ぎ去った。頭の中は雷への恐怖心とその恐怖心を知っているはずなのに、助けにも来ない恋人への怒りでグチャグチャ、もしかしたら、少しだけ泣いていたかも知れないほど。
 それでも、所詮は夕立、勢いが激しければ激しいほど、降る時間は短い。彼女の鼓膜と心を振わせ続けた雷もその勢いを弱め、再び、ゴロゴロという低いうなり声を、遠くから聞かせるだけになっていた。
 もう行ってしまっただろうか? そんな思いを持って、彼女は恐る恐ると視線を背後へと向けた。
 用をなしていなかった明かり取りの窓からは、太陽の残照。スコールに洗われたそれは、普段見るものよりも遥かに美しい。しかし、彼女の瞳にそれは映らない。映っているのは、窓の下につけられた鏡だけ。それには彼女の背中が……
 雷への恐怖と恋人への理不尽な怒りで、バラバラのベクトルだった心が、今、一つの方向へと整列した。
「なお! りょーやん! 美月さん! 誰だ!? 私の背中で遊んだバカは!!!」
 一つの雷が行き過ぎ、新たな雷がここに落ちた。

「……バカってオイルを塗ったのは……三島さん……かなぁ……」
「……りっ良夜さんが……えっと……あの、そっ、そうでした、塗れって言ったんですよ、知ってま……せんよね?」
「……最初にバカって書いたのは直樹だぞ、直樹」
 床の上に正座させられているのは、三人の被告達。それぞれ、一様に顔を下げ、貴美の顔を直視する事が出来ない。
 大きな胸の前に腕を組み、貴美はじっと三人の頭を上から見下ろしていた。細く開いた目がゆっくりと三人の顔を順番に渡り歩く。どの顔にもわずか一秒に満たない時間しか留まらないのだが、その一秒が、留められた人間には一年にも感じていた。
 それほどまでに貴美の顔は恐かった。イライラと床をノックし続けるつま先、日焼けした彼女自身の腕に食い込む指先、硬く真一文字に結ばれた唇、全てが怒りを示す。何より一番恐いのは、真っ赤に充血したその目だ。怒りからではなく、雷が恐くて泣いていた所為での充血。でも、三人の被告はそんなことなんか知らない。ただただ、真紅に充血した目のインパクトだけがそこにあった。
 だから、それぞれは貴美に顔を見られるたびに、誰か他の二人に自分の罪をなすろうとしていた。
「おっ俺は直樹のためを思ってだな……」
「私はしたつもりなんてなかったんですけど……いつの間にか……」
「あれだけだったら、すぐに消えると思ってたんですよ」
 それぞれの口から紡がれる言い訳、それが更に貴美の顔を不機嫌にしていく。彼女の顔が不機嫌になっていくから、三人は更に饒舌になる。不機嫌スパイラル。
「正直、悪かったと思ってるわ。ごめんね、良夜。美月にも伝えておいてくれるかしら?」
 そんな中、最大の戦犯でありながらも、最も安全な空域をキープしているアルトだけは余裕の表情だった。貴美の背後、テーブルのヘリに腰を下ろし、いつものように足をプラプラさせているだけ。口では悪かったと言っているのに、その表情にはこれから起こる事への期待感が隠しきれていない。
「ちっ……」
 貴美の視線が途切れたことを良いことに、良夜が小さく舌を鳴らした。
「……舌打ちしたいんは、私の方だけど……良夜」
 その舌打ちを地獄耳でキャッチした貴美が、じろっと良夜の方へと視線を移した。三人を正座させてから、最初に発せられた言葉、それは感情のこもらない冷たい声で形作られていた。正座している良夜と立ったままの貴美、だから、声の聞こえてくる方向は当然上からのはず。なのに、その声は足下……それも地殻などではなく溶岩逆巻くマントル層辺りから聞こえてくるような気がした。
 しかも、呼び方が『良夜』だ。直樹が言うには、貴美の怒りが限度を超えたとき、彼女は対象者のファーストネームを呼び捨てにするらしい。過去、直樹が『直樹』と呼ばれた経験は三回しかない。
「いや……あの、別に吉田さんにした訳じゃなくて……」
「……じゃ、何……」
「何……と、言われても……えっと……」
 ぶつくさと言葉を濁したことが、彼女の怒りに油を注いだ。
「男ならシャンとしなよ! シャンと!!」
 ダン! 大きな音を立てて、小麦色の素足が床を踏みつけた、床を踏み抜かんとする勢いで……
「いや……ごめん」
 良夜の口をついて出たのは、反射的な詫びの言葉。
「良夜が美月さんに塗れってゆーたんやね?」
 確認するるような口調。もう、他の二人は見ず、貴美の目は真っ直ぐに良夜を射抜いていた。
 この時、美月は自分が『さん付け』で呼んで貰えていることを安堵したわけだが、貴美に威嚇されている良夜も、キレた貴美に内心気が気じゃない直樹も、それに気付く余裕はなかった。
「だから……えーっと……それは……」
「今の貴美に、私の話をして、信じると思う?」
 言葉を選ぶ良夜とそれを見ていたアルトとの視線が貴美の顔の辺りで交わった。
 良夜は一瞬、アルトのことを話すか? との誘惑に駆られた。喫茶アルトには悪戯好きの妖精が住んでいて、貴女様の背中にバカとオイルを塗ったのはその妖精さんなんですよ……と。
「きりきり喋る!!」
 貴美の声が物理的力を持って、言葉を逡巡する良夜の横っ面をひっぱたいた。
 駄目だ……今、妖精がどうだとか、あーだとかなんて話をしたら、ただの下手くそな言い訳……いや、からかっているとしか思われない。怒りに液体水素をブチかけるようなものだ。
 にやけたアルトの顔から、クシュンと俯く美月の横顔、そして、眉をつり上げさせた貴美の顔へと、良夜の視線がさまよう。
「そ……そうです……」
 最後に貴美の足下へと視線を動かして、良夜は自らの背中に罪という名の荷物を背負った。
「……判った……なおが砂で下書きして、りょーやんが消すために美月さんにオイルを塗らせたって事やね……」
 声に出しながらの反芻。一応、呼び方が良夜からりょーやんに戻った。そのことは素直に嬉しいが、それでもようやく、極限の怒りから通常の怒りに落ち着いた程度。普段なら、これでも十分に恐いと表現するべきレベルだ。
「私、今夜、一人で寝たいから美月さんは男部屋で寝て。男二人はリビング!」
 一方的な宣言、判決を三人の被告に下すと、貴美はプイッとそっぽを向いて女部屋へと引っ込んでいった。
 ドバタン!
 ドアだけではなく、壁、いや、もしかしたら別荘本体までもが壊れようかというような音を立てて、扉は固く閉ざされた。
 再び貴美がリビングに帰ってきたとき、彼女はパジャマの上からもう一枚パーカーを羽織っていた。別にパジャマ一枚で背中の文字が浮き出てくる、と言うわけではないはずだが、彼女は寝るまでパーカーを脱ぐことはなかった。
 まあ、それから寝るまで数時間のぎすぎすとした雰囲気と言ったら……貴美は、限界以上に空気を膨らませた風船のような雰囲気だし、その風船に下手な刺激を与えないように誰も喋らない。
 アルトだけはいつも通り、良夜にちょっかいを出すのだが、貴美の雰囲気に飲まれた良夜も全くと言っていいほど相手をしない。それがアルトをも不機嫌にしていく。不機嫌な女が二人と、それを刺激しないようにしている三人の男女、彼らの空間は沈黙だけが支配していた。
 食事も昨日と同じく貴美と美月の合作、筑前煮だとかひじきの煮物だとかほうれん草のおひたしだとか、味だけを見れば十分すぎるほどの美味。しかし、会話一つ無い食卓は葬式か離婚直前の夫婦のよう。誰もが食が進まず、四人分の食事は半分ほどにも減らなかった。
 砂をはむような食事が終わった後も、アルトも含めた五人は、一応、全員リビングでくつろいでいた。しかし、取り立てて、会話もなければ、かかっているバラエティ番組で笑う人間も居ない。ただ、適度に間隔をとって座ったそれぞれが、黙ってテレビを見ているだけ……
 そして、貴美はそうしていることにも飽きたのだろうか……貴美は普段よりも遥かに早い八時過ぎには、「寝る、お休み」と言ってリビングを出て行ってしまった。
 こうして、三日目の夜は、余りにも静かすぎるほど静かに更けていった。

 翌日の朝、朝食が終わっても、五人が海に繰り出すことはなかった。いや、別荘の中から出ることすらなかった。
 空は相変わらず巨大な入道雲と太陽が照りつける、絶好の海水浴日和。二日連続で泳いだとは言っても、泳ぎ飽きることもなく、普段ならば迷わず水着に着替えていたことだろう。それなのに、貴美を除いて誰一人として水着に着替えることはなかった。そう……貴美を除いて。
 朝食を終わらせ、一度部屋に引き上げた貴美が、再び出て来たときには水着姿だった。その事に誰もが、アルトまでもが驚愕の声を上げた。
「日焼け……消さなきゃどーにもなんないっしょ」
 幾分マシにはなっているが、それでも十分に不機嫌と呼ばれるテンションで、貴美は天窓の真下に置かれたテーブルを良夜にどけさせた。
 ごろん。
 黙って直樹にオイルを押し付けると、タオルケットを一枚引いて、天窓の下に体を投げ出す。
 部屋のど真ん中を占領する貴美、残りの三人と妖精一人は、何するともなしに座って、テレビをボーッと見ていた。掛けているだけのテレビからは、ワイドショーのコメンテーターがなんだかんだと偉そうなことを言っている。誰も聞いちゃ居ない。
 天窓から差し込む夏の光は、海辺で眺めていた物と全く同じ。エアコンは掛けているし、温度計は二十五度を指す。快適と言っていい環境。しかし、天窓から差し込むまぶしい光、その下で座っているだけで、心地よい汗がにじみ出してくるような気がする。
「遊びに行くんなら、遊びに行って良いよ……」
 直樹にオイルを塗りおえさせた貴美が、ボソッと小さな声で呟いた。
「行けるわけないじゃないですか……」
 答えたのは、貴美から一番近い位置に座っていた直樹。小さな声で直樹が呟くと、貴美はチラッとそちらの方へと視線を向けた。
「なおはここにいるに決まってるっしょ?! 私は美月さんとりょーやんに言ってんるん!!」
 その怒鳴り声に、全員が「あちゃぁ……」と声を上げる。
「ああ……まあ、俺も……もう、泳ぐのも飽きたし……」
「そうですね、今日はのんびり……」
 直樹のフォローをするかのように二人が声を上げれば、貴美は満足したかのように額を床の上に押し付けた。
「別に……もう、怒ってないよ……うん、この位の悪戯なら私もしたことあんし……」
「……主に僕に」
「なおは私の恋人なんだから、我慢してたら良いんよ。男なんだし……私よりチビだけど」
「そう言う問題じゃないです!」
「そう言う問題なんよ、チビでも貧弱でも貧相でも例え、文化祭で女装した挙げ句に、他校の男子生徒にナンパされて泣きそうになったって事があったにも男で私の彼氏なんよ」
 いつも通りの口調で貴美が直樹を弄れば、美月と良夜は顔を見合わせ笑い声を上げた。そして、貴美もいっしょに笑い始める。
「僕にお姫様役を押し付けたの……吉田さんじゃないですかぁ……」
 ただ一人、恥ずかしい過去を暴露された直樹だけはふくれっ面。まあ、これもいつも通りと言えばいつも通り。
「お昼ご飯を食べたら、庭でスイカ割りしましょう? ここなら吉田さんの背中も見られませんし」
「そうそう、美月さんの関東平野も誰にも見られないしねぇ」
「本当に給料減らしますよ?」
 ほぼ半日ぶりに、四人の楽しげな声がリビングルームに響き渡った。ただ一人、会話に参加できない妖精さんは――
「当コテージのガラスはUVカットガラスを使用しています……ね」
 入り口傍に張られた注意書きの紙を、一人読み上げていた。

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