母帰る(1)
 夏休みで土曜日、となれば喫茶アルトは事実上開店休業という状態になる。朝から来店したのは、貴美が無理矢理連れてきている直樹の他には、土曜日だというのに研究室に籠もりっぱなしの研究員か、休日出勤の事務員さんか、気まぐれに立ち寄ってくれるドライバーくらいのもの。試験前の慌ただしさが嘘のように、喫茶アルトは静まりかえっていた。
 そんななか、貴美はカウンター席に腰を下ろしてぼんやりと次なる客を待っていた。これだけ暇だと、彼女の営業用人格も機能を停止してしまう。忙しければ忙しいほど、彼女の営業用人格はパフォーマンスを発揮する仕様だ。
「暇ですねぇ……大丈夫なんですか……お店……」
 カウンターの中でドリッパーの前に立つ和明にやる気のない声をかけた。
「夏休みや春休みはいつもですよ……冬休みはクリスマスがあるので、忙しいんですけどね」
「なんか、土日とか夏休み、店長一人でもOKな気がしちゃうんよねぇ……」
「ふふ、老人一人より、妙齢のご婦人が居てくれた方が、店が華やぎますよ。高見君のコーヒー、入りましたよ」
 チンと涼しげな音を立て、クラッシュアイスが詰め込まれたグラスとコーヒーサーバーがカウンターの上へと置かれた。客の目の前でクラッシュアイスがつまったグラスの中に熱いコーヒーを注ぐのがアルトでのアイスコーヒーの出し方。
「またまた……店長って口、上手だよね。じゃぁ、持って行きます」
 微笑を浮かべた老人にそう言われ、嫌な気がする女性が居るはずもなく、貴美は珍しく照れたような表情を浮かべ、ストゥールから立ち上がった。
 のんびりとしたひと時、バタバタと仕事に追われる時間も良いが、こうやって老紳士との会話で時間を潰すのも悪くはない……貴美は直樹の待つ窓際の席へと歩きながらそんなことを考えていた。
 その後、貴美が直樹の席で時間を潰していると、入り口のドアベルの音が閑散とした店内に響き渡った。客が来ると彼女の営業用人格にはスイッチが入る。話をしていた恋人に「ごめん」とだけ声を掛けると、客を入り口で出迎え、お上品な口調と態度で席へと案内をする。いつも通りの慣れた作業……のはずだった。
「いらっしゃいませ、ようこそ喫茶アルトへ。ただいまお席にご案内します」
 店内に入ってきたのは、年の頃なら貴美の両親と同じかもう少し若いくらいの女性、黒くて真っ直ぐな長髪と大きめの黒い瞳、ついでに薄い胸は何処かで毎日見ているような印象を貴美に与える。彼女は店内に入ると貴美の体を値踏みするようにジロジロと見つめ、大きく息を吸った。
「美月ちゃん! お母さん、胸の大きな人は雇わないでって言ってたでしょう!!!」
 流石の貴美もこれには言葉がつまる。アホのようにポカーンと口を開いたまま、「おや?」と顔を上げた和明の元へと駆け寄る彼女の背中を黙って見送るだけだった。

 時間はちょっと進んでランチタイム。大学は休みになったが、良夜は二日に一度程度の割合でランチタイムを喫茶アルトで過ごしていた。
 がつがつ……むしゃむしゃ……ごっくん!
 良夜が食事へとやってきたとき、いつもの席には私服姿の美月が陣取り、バクバクとケーキの類をいくつもその細身なウェイストへと詰め込んでいた。すさまじい勢い、それは無限にケーキを吸い込むブラックホールにスコップでケーキを投げ入れているようだ……というのは少し言い過ぎかも知れないが、それに近い雰囲気はある。これに比べれば、貴美の甘味フルコースはまだ甘かった……甘味だけに。
「……どうしたんだ? 美月さん……」
 良夜が目の前に座ったことにも気付かない様子で、美月は長いフォークでパフェの上に乗っているフルーツだけをヒョイヒョイと口に放り込むと、残ったクリームやらフレークをゴクゴクと飲み干していく。良夜は今日初めてパフェって飲み物だった事を知った。
「清華が帰ってきたの……良夜、吐きそう……」
 半分独り言の声に答えたのは、美月のグラスからコーヒーを飲んでいたアルトだった。吐きそうとか言ってる割りには、きっちり美月のミルク過多アイスコーヒーを飲んでる辺り、まだある余裕をかいま見ることが出来る。
「さやか? 誰? 直樹は? ……吉田さんにはさっきあったけど」
 貴美がバイトをしているとき、直樹はいつもこの席にいるのだが、今日はその姿が見えない。代わりにいるのは、もの凄い勢いでスィーツを食べている美月とそこからコーヒーをかすめ取っているアルトの二人だけだ。
「逃げたわよ」
 なんで? と聞くよりも早く、良夜はその理由を知ることとなった。
「良夜さん! 聞いてください!!」
 ガン! テーブルの上にパフェのグラスが叩きつけられ、パフェグラスに小さなひびが入った。結構、分厚いガラスで出来ているような気がするのだが……
「はっ、はい!」
 思わず背筋がピーンと伸びてしまう。それは良夜だけではなく、アルトまでもがテーブルの上に正座してしまったのだから、その迫力のほどがうかがい知れるというもの。正直、今の恐怖は美月に「やーい、このまな板女」と言ってしまった時を軽く越えていると思う……言ったことないけど。
「普通、お父さんが海外出張だからって、お父さんの実家に帰ってきますか!?」
「……はぁ?」
「馬鹿……こう言うときはひとまず相づちを打っておくものなのよ」
 曖昧な表情、曖昧な口調、余りにも日本人らしい良夜の返事に、テーブルの上で背座をしているアルトは咎めるような表情で良夜を見上げた。しかし、そんなことを言われても、主語がはっきりしないんだから、返事のやりようがない。
「なんですかっ!? その返事はっ!!」
「はっはい!」
 何処の鬼軍曹だ……この人。
「しかも、可愛い娘の仕事は取り上げる、制服着てない奴は働くなとか言うし、もう、私は怒ってます!!」
 怒りながらもケーキを食べることを彼女は辞めない。大きな声で怒鳴りながら、絶妙のタイミングでケーキを口の中へと押し込み租借して飲み込む。普通にしゃべれているのが不思議すぎる。
「あぁ、そう言えば、制服じゃないですね……」
「今日は土曜日ですから!」
「あっ……土曜日なんだ……今日……一昨日、寝ないで飲んでたからな……」
 夏休みに入ってからと言うもの、彼にとって、日付の基準は「次のバイトの休みまで何日か」だけになっていた。曜日の感覚など、徹マンしたり、飲み会で明かしたりしているうちに完璧になくなっている。
「良夜さん! また、深酒ですか!? 先日も随分と沢山飲んでいらしたようで、未成年がそんなことをして良いのかと、私は一度、はっきり申し上げるべきだと思ってました!!」
 細い眉がつり上がり、目は鋭く良夜を射抜く。こんな美月の顔を見るのは始めてだ。
「あぁ、美月の思い出し怒りが始まったわね……長くなるわよ……」
 カクンと落ちるアルトの頭、いや、お前が怒られている訳じゃないから……
「あっ、あのぉ……お説教はまたの機会と言うことで……聞いて欲しい話って、なんですか?」
「そうでした、お母さんです! お母さんなんですよ! 良夜さん!!」
 アルトが清華と呼んだ女性は、本名を三島清華――みしまさやか――(匿年齢)、美月の母親である。良夜達の通う大学のOBで当時は喫茶アルトでウェイトレスをしていた、貴美のような人物。それがきっかけで三島家の一人息子、拓也とお付き合いを初めゴールイン、数年前から旦那の転勤に付き合い、県外で暮らしていた。その拓也が七月の中頃から九月の頭まで海外出張と言う事になったので、何故か、自分の実家に帰らず、夫の実家へと帰ってきた、と言うお話。
「大変ですよね……お盆も海外ですか……」
 英語が激烈にダメな良夜にとって、二ヶ月も外国暮らし、と言うのはそれだけでうんざりとしてしまうもの。お盆休み、いつ取るんだろう、等と良夜は他人事ながら心配してしまう。
「大変なのは私です!! お母さんは帰ってきたら、普通の顔をして働くし、私の仕事は取っちゃうし、あぁぁ、もう、良いですか? 良夜さん! 普通、夫が留守をしたら、自分の実家に帰ると思いませんか? 思いますよね! それを夫の実家に帰ってくるわ、家業を言われずとも手伝い出すわ、変です!!」
「……良くできたお嫁さんじゃないんですかね……」
「ツッコミのサガね……良夜」
 思わず余計な突っ込みを入れる良夜に、正座したままのアルトが呆れた顔で突っ込みを入れ返す。別に良夜にツッコミという自覚はあまりない。ただ単に回りのボケが酷すぎるから、普通人の良夜が突っ込むしかないだけ。それに一番、良夜のツッコミを鍛えてくれているのは、そろそろ正座しているのが辛くなったのか、体重を右に掛けたり左に掛けたりし始めているアルトだ。
 ……美月さんには見えてないんだから、辛いんなら足を崩せ、と良夜は心の中で小さく突っ込んだ。
「良夜さん!! 良夜さんは私の敵ですか!?」
 バン! 美月の両手がテーブルの上へと叩きつけられた。
「敵って……美月さん……」
「味方以外は敵なんです!!」
 どこぞの超大国のような色分けをしてしまう美月、テーブルの上にあったスィーツが全てなくなったおかげで、彼女の演説は更にヒートアップしていく。もう、良夜が相づちを打つ暇すらない。
「それだけならまだしも、経理のやり方がおかしいとか! 豆の在庫が多すぎるとか! 掃除の出来が悪いとか! いちいち、私のやり方に文句を付けて、お祖父さんはお祖父さんで相変わらず笑ってるだけですし! 私はですねっ! 三代目フロアチーフさんとしてですね、それはもう、一生懸命働いてですね!! 聞いてますか!?」
 ばんばんと何度も叩かれるテーブル、古くさいけど丈夫に作られているテーブルは、美月の細腕が何度叩いたところで壊れることはない。それどころか、叩いている手のひらの方がじんわりと赤くなっているようだ。
「それじゃ、私に働くなって事ですか?! そうですね?! 私はいらない子なんですね!!!」
 美月は唯一残っていたアイスコーヒーのグラスを取ると、一気にその琥珀色の液体を飲み干して、言葉を一旦打ち切った。しかし、アルトと良い美月と良い、ここの関係者は怒り方に色気がないな……と、良夜は怒って膨らませてるんだか、口に含んだ氷で膨れてるんだか判らない美月の頬を見てため息をついた。
「えっと……要するに、仕事を取られたのが気にくわなくて、拗ねている……と、そう言うわけですね」
「……ごくん。拗ねているんじゃありません! 私は怒ってるんです!!!」
 口に含んでいた氷を飲み干し、美月は一息つくと、口の端をペーパーナプキンで拭った。
「どっちも同じよね……」
 アルトの小さなつぶやきに、良夜も同意をしてしまうが、拗ねてんだか、怒ってんだか、判らない拗ね方をするのはアルトも同じだ。っと、アルトの場合は怒ってるような拗ね方で、美月は拗ねてるような怒り方か……と、良夜は少々考えを訂正した。
「あぁ……判りました、判りました……お怒りはよく判ります」
「はい、判っていただき、私も安心しました……所で、深酒の件ですが――」
「……忘れてなかったんだ……」
 ウダウダウダウダウダウダウダウダ……美月のお説教はそれからたっぷり三十分は続いた。

「追加オーダー、お持ちしました……荒れてんね、美月さん……あれ、なおは?」
 貴美の手により追加で運ばれてきたのは、生クリームたっぷりのワッフル。ボリューム満点の逸品。昼飯を食べに来たつもりだったのだが、何も食べてないのに良夜のお腹はすでに一杯。
「直樹君はお帰りになりました!」
 プイッとそっぽを向いて、美月は吐き捨てるように答えた。そりゃ、この不機嫌極まりない美月の傍にいるのは、誰だっていやだろう。良夜だって、逃げ出すタイミングさえ見付けられれば逃げ出しているところだ。ちなみに、直樹は美月がトイレに立った瞬間に店から出て行ったそうだ。そして、それが更に美月の怒りに油を注いだ……良夜は直樹を恨まずには居られなかった。
 全くの余談だが、直樹が帰ったことを知った貴美は、小さな声で「折檻だね……」と呟いたとか呟かなかったとか……
「……まだ、食べるんですね……」
 テーブルの上に置かれた大きなワッフル、普通の人間ならこれ一枚にコーヒーで昼食は終わりになるボリューム。それを彼女は、散々、ケーキを詰め込んだお腹に納めるとおっしゃる。普通ではない。
「何か?!」
 両手にホークとナイフを持ったまま、美月は良夜の顔を睨み付けた。下手な口答えをすると、その二つの凶器で食べられてしまいそうな雰囲気に、良夜は「いいえ、どうぞ、お召し上がり下さい」と答えるしかなかった。
「ヘタレ……」
 卑屈に頭を下げる良夜に、アルトが小さく呟いた。しかし、アルトも未だ正座を崩さず、痺れた足をモゾモゾさせている。
「まっ、明日は私、休みだから、思う存分働きなよ」
 新しく置かれた皿を前に顔を緩ませる美月の頭を、貴美の華奢な手のひらが優しく撫でた。どっちが年上で上司なのか判らない光景だ。
「うう……私は今日も働きたかったんですよぉ……」
 言いたいことを言い、たらふくケーキを食べた所為で美月の怒りも一段落。彼女は普段のペースに近い速度で、ワッフルを切り取っては口に運んでいた。それでも全く手が休まらないのは、怒りの火種がまだくすぶっているからなのだろう。
「でも……あの人いると、他にウェイトレスいらないよねぇ……良く働くよ、私もすること、減っちゃってるし」
 貴美はキッチンの方へと視線を向けて、肩をすくめた。今日が夏休みの土曜日だから、と言う事情を差っ引いても貴美の仕事は極端に少ない。ここに美月の注文を持ってきたのも、余りにも暇なんで「おばさんが持って行ったら、美月さんが余計に怒るから」と言って来たらしい。
 おかげで、ついに彼女の優秀な営業用人格も本日は店じまい。やる気も覇気もなく、貴美はだらけきった姿で良夜や美月との立ち話を続けていた。椅子を持ってこない辺りが、最後の理性だ。
「そりゃ、お母さんは十代の頃からずーっとここでウェイトレスしてましたから」
 ここに来てようやく、美月の食べる手が止まった。彼女は良夜が「えっ?」と疑問の声を上げると、自分の母が大学で経済を学んでいたことや、幼かった自分を育てながらウェイトレスをしていたことなどを、食べることも忘れて語り始めた。我が事のように誇らしげに語る姿は、彼女が母のようにここで働きたがっているのだな、と言う想像は良夜やアルトにも十分によく判った。
「ふぅ、お腹一杯になって、良夜さんや吉田さんに色々聞いて貰ったら、少しはすっきりしました」
 ワッフル最後の一切れを口に運ぶと、美月はようやくいつも笑みを顔に浮かべるようになった。
「まあ、今日はゆっくり休んで、明日からまた頑張ればいいと思い……あれ?」
 良夜が顔を上げると、そこには美月の十数年後を予感させる一人の婦人が、喫茶アルトの制服を着て微笑んでいた。
「そうそう、美月ちゃんは美月ちゃんのやり方で頑張ればいいのよ。明日はお母さん、用事があるから、ね?」
 ポンと軽く叩かれる美月の小さな頭。彼女は甘えるように少しだけ眼を細めると、「はい」と小さくうなずいた。
「所で、帳簿、ここは違うと思うの。お母さん、直しちゃって良いかな? 明日は居ないから今日中に」
 そう言って清華が差し出したのは、倉庫で見たことのある一冊の大学ノート。言われて覗き込んだ美月の顔色がみるみるうちに赤く染まっていく……
「ご勝手に!! 吉田さん、ショートケーキ、ホールで! それとアイスコーヒーも!!」
「良夜……今から、貴方の家に遊びに行って良いかしら?」
「……ここから逃げ出せたらな……」
 ショートケーキをオーダーされたことを良いことに、貴美はさっさと逃げ出し、清華本人は美月の「ご勝手に!」の言葉を受けて、本当に「ご勝手に」する気の様子。
 取り残されたのは、オーダーをして貰ったわけでも、ご勝手にと言われたわけでもない常連客と妖精さんの二人きり。
「良夜さん! 私は本当にいらない子なんですか!」

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