父と娘と妖精と煙(完)
 喫茶アルト店主夫妻は一人息子に決して手を挙げない親だった。ただ、代わりに……
「アルト、刺して良いわよ」
 何かあるとこんなことを言っちゃってただけ。例えば学校でスカートめくりをやっただとか、勉強すると言って部屋に引っ込んでたのに実はマンガの本を読んでたとか、店のケーキを勝手に持ち出して友達と食ってたとか、高校生になる頃には持ち出すものがブランデーになってたとか……彼もいい加減、ろくでもないことをやる子供だったようだ。
 そして、アルトもその親(主に母親の方)が言う言葉に従って、素直にさくさくと刺していたのだから――
「お盆もお正月も、あまつさえ、真雪の命日も帰ってこないって! 貴方、何様!? 栄転したからって威張るんじゃないわ!」
「ごめん! ごめん!! 何言ってんのか解らないけど、とりあえずごめんなさい!!」
 しゃがみ込み、抱え込んだ頭をアルトはざくざくとストローで刺しまくる。それを彼は涙を浮かべて耐えるばかり。アルマーニのスーツも糊の効いたワイシャツもすべて台無し。幼き日々のトラウマは未だに彼の背中に乗ったままになっていた。
 で、それを、
「久しぶりですねぇ〜お父さんがアルトにいじめられてるの」
「ホントホント、これがないと帰ってきたって思えないわね」
 妻子は微笑ましく見守っていた。
「……なんて家族だ……」
 良夜は笑う母娘と半泣きでアルトに謝っている男性を見比べ、良夜は深いため息を突くしかなかった。
 なお、このとき、フロアで掃除をしていた人々は、美月のご機嫌が多少なりとも良くなったことに安堵の吐息をこぼしたという。もっとも直後、美月が掃除が終わり、においが消えるまで絶対に帰さないという強固な姿勢に出たせいで、その安堵の吐息も落胆のため息に早変わりする羽目になるのだが……

 さて、それから小一時間、喫茶アルトのフロアを数十人のおっさん達が掃除をするという異様なイベントも一段落。山のように灰と吸い殻が溜まっていた灰皿も、火災現場のように淀んでいた空気もすべて店内から追い出され、ついでに煙草をすぱすぱやってた連中も逃げ帰り、残っているのは三島家の人々以外には良夜とタカミーズ、それにアルトくらいのもの。店内はがらんとしたいつもの休日に立ち返っていた。
「んじゃ、私らは帰るわ」
「店長さん、ごちそうさま、おいしかったです」
 その残っていたタカミーズも二人の前に置かれていた取り皿からピザとケーキが消え失せると、どちらからともなく席を立った。
「おや、お帰りですか? コーヒーのおかわりくらいならおごりますよ。ばたばたしてしまいましたので」
「お代わりのコーヒーには心惹かれっけど、ボーイフレンドとガールフレンドの父親とのご対面に部外者はいらないっしょ?」
 和明のお誘いを丁重に辞すると、立ち上がった貴美は財布から料金を彼に手渡した。そして、ぽんと良夜の肩を一つ叩く。叩いた顔を見上げれば、貴美は普段からへらへらと笑っている顔をさらにニヤつかせ、良夜の顔をわずかに高い位置から見下ろしていた。
「なおはその手の経験ないけど……噂によると大変らしいよ? 特にりょーやん、朝どころか六泊七日帰りだし」
「僕は吉田さんのお父さんに考え直せっていわれたくらいですからねぇ……考え直しておけば良かった――いったぁ!」
 貴美のへらへらとした軽い口調に直樹は真顔を見せて減らず口をたたく。その減らず口に貴美はへらへらとした表情を一ミリ足りとて動かしもせず、ただ右腕を一度だけふるう。それはねらい違わず直樹の延髄に真っ逆さま。その勢いは人一人を殺せるに十分なようにも見えたが、直樹は痛いと言ってうめいているだけ。相変わらずやけに丈夫に出来ている男だと良夜は呆れたものだが、それもわずか一瞬。
「…………あっ、そっか……」
 貴美の言葉の意味を租借しきるまでに十五秒、それが終わるとぽかんとした表情で良夜はつぶやく。高校時代や大学の同級生なんかから親父と鉢合わせして大変って話は聞いたような気がしないでもない……基本的に男所帯の中で生活している良夜にとって、トンと縁がなければ、ピンとこない話だ。そもそも、後ろめたいことは一切やってない……それが自慢になるのか自慢にならないのか、第一、それに満足してて良いのか? という話しもあるが、ともかく、いわゆる清い交際を続けてるんだから、堂々としてりゃ良いよな……と良夜はわずかな時間において覚悟を決める。
「フフ……大丈夫よ、私が付いてるわ」
 それまでグラスの縁からストローでコーヒーを飲んでいたアルトが、座っていたグラスを踏み台にポンと良夜の方へと飛び移る。彼女はそこから良夜の顔を見上げると、ふふふ……と意味深な笑みを浮かべ始めた。
「……お願いだから話をややこしくしないでくれ……」
 自信満々に彼女が胸を反らせば、良夜の不安はいやが上にも盛り上がる。良夜は右手を頬杖にし、アルトの顔から視線をそらした。そらした先には開け放たれた玄関のドアと、そこから今まさに入って来ようとしている噂の当人が見える。彼と彼の妻子は、溜まりに溜まった吸い殻を家族三人で捨てに行ってたはずだ。
「お掃除終了ですよ〜ついでに大掃除もしちゃいました」
「もうちょっとこまめに大掃除なさい? お母さんがしてた頃は夏休みなんて、毎日大掃除ばっかりだったわよ」
 明るく美月が言い切れば、清華はお小言を言う姑の表情を浮かべる。二人はそんな話をしながら、美月、清華の順番で良夜の隣に腰を下ろした。そして、最後に玄関で淀んだ空気を外へと追い出していた大きな扇風機をトイレ横の物置に押し込んで、拓也が清華のさらにその先の席を陣取った。
「じゃぁね、りょーやん、結果は今夜、聞きに行くから」
「……ひっ、引き留めますので……」
 入れ替わりに立ち去るタカミーズを視線だけで見送り、良夜は残っていたチーズケーキを口に運ぶ。
「あら、食べちゃった? もうちょっと欲しかったわ……気の利かない童貞ね?」
 肩口から空になった取り皿を見下ろし、アルトがペチペチと良夜のほっぺたを数回にわたって叩く。良夜はそれをうっとうしいと感じながらも、それを口に出しはしない。ただ、代わり……というものにもならないが、母親を挟んで父親と言葉を交わす美月の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
 煙草の一件でかなり斜めになっていた美月の機嫌も、小一時間の掃除とその結果そこそこに綺麗になったフロアのおかげでひとまずは正常化。弾む声で店の経営状態やここしばらく行っていた海でのことなど、長らく会えなかった父親と娘らしい会話をいくつも重ねていく。それに清華も時折会話に乗り、和明はタカミーズが残していった食器の後片付けに余念がない。
 となれば、妖精さん以外には完璧に忘れられた存在に良夜はなってしまう。
「里心が付く?」
「別に……」
 顔をのぞき込むアルトにぶっきらぼうな返事を返すと、良夜はグラスに残っていたわずかばかりのコーヒーを一息に飲み干した。
「ほら、良夜、早く言いなさい。『美月さんを私にください!』って」
「……まだ全然早いって……俺は学生だ。さてと……」
 クラッシュアイスだけが残るグラスをカウンターに戻し、良夜は座っていたストゥールから腰を上げる。荷物だけは自宅アパートに放り込んだが、その中には洗っていない洗濯物で一杯。お世辞にも衣装持ちじゃない良夜としては早めに洗っておかないと着る服がなくなってしまう……という話が言い訳に過ぎないことは良夜当人が一番理解していた。
「じゃぁ、俺も――」
「あっ!」
 立ち上がりかけた左腕を美月がギュッとつかむ。もちろん、それを払いのける理由は見つからず、続いて発せられるであろう言葉に良夜は身を固くした。
「おつきあいしてる、浅間良夜さん! お父さんとは初対面ですよね?」
 立ち上がった表紙に美月は一瞬だけ良夜をみるも、すぐに視線を父親に戻した。そして、発せられる紹介のお言葉。
「なんと、良夜さんはアルトが見えるんですよ! すごいでしょ!」
 弾んだ声で紹介されるも、何もそこは言わなくても良いだろうに……と良夜は心の片隅で美月の紹介の仕方にだめ出しをした。そう言う紹介のされ方をすると、まるで自分の存在価値がそこにしかないような気がしてくるからだ。
「ないわね、実際」
 肩の上から響く言葉に、うるさいの気持ちを込めた視線を投げかける。
「あっ……ああ、さっき……助けてもらったから……」
 アルトと良夜のアイコンタクトを知ってか知らず――たぶん知らない――か、拓也はその紹介を何ともばつの悪そうな表情で返事をすると、改めて良夜の顔を見上げた。
「まあ……美月も成人しているし、君も子供じゃないのだから余計なことを言う必要もないと思うが……お互い、節度を持った付き合いをしてくれ。私が言いたいのはそれだけだよ」
 先ほど、アルトに頭を刺されて半泣きになっていた男性とは思えない表情と口調。それはまさしく男親の顔だった。良夜はその顔に「はい」と照れと緊張感がない交ぜになった言葉を返す。すれば彼も話はこれで終わりとばかりに、自分のグラスが待つカウンターへと視線を戻した。
 緊張の一瞬もこれで終わりか……と思えば拍子抜け――
「何よ? 拓也なんて清華と夏休み三日目に知り合って、夏休み最終日前日にはホテル行ってたじゃない? これのどこが節度を持ったおつきあいよ……大人は汚いわね? 良夜」
 ぷいっとそっぽを向いてアルトが言った。彼はアルトの言葉が何を意味しているのか、一瞬だけ理解が出来ずにいた。そして、理解した直後には先ほど抜けた拍子は遠くのお山に飛んでいった。
「事前に知ってれば絶対について行って、かぶりつきで見たのにっ! 良夜はちゃんと教えるのよ?」
「って、おい!」
 苦々しく付け加えた言葉に、良夜は思わず怒鳴り声にも似た声をあげる。あげれば集まる一同の視線、特に痛いのが誰あろう美月の視線だ。
「えっ、あっ……いや、何で――」
「ああ! また、アルトが良夜さんに何か言ったんですね? 私にも教えてください」
 衆人環視の中、ごまかそうとする良夜に美月がうれしそうな表情でうれしそうな声をかぶせてくる。それは正しいのだが、教えてくださいと言われて、はいそうですかと教えられる内容ではない。
「いや……大したことじゃないですから。俺、帰って洗濯――」
 と、視線をそらしながら言っても、美月が引き下がるような女でないことは良夜が一番よく知っている。彼女はじぃーっと良夜の顔を見上げながら、握りしめた手にさらなる力を込めていく。
「良夜さんだけアルトとお話しして……ずるい」
 大きな瞳が恨みがましそうに見上げ、彼女のほっぺたがまん丸にふくらんでいく。それを見下ろし、良夜はきょろっと周りに助け船を探した。
「そう言えば、美月は母さんにもこうやってねだってたな……」
「ええ、毎晩お義母様に『妖精さんのお話しして』って……」
 が、言われて一番に困る連中は懐かしそうに目を細めるだけだし、和明は遠くでパイプを磨いている。彼のために大海原へと出航する助け船などどこにもない。そして、良夜が困っていることを察すれば、彼女はさらに言葉をどんどんと重ねていく。
「私は何でも知っている〜例えば、清華と知り合う直前、別の女に振られてて、女なら誰でも良かった的な感情がなかったといえば嘘になるとか! 実は最初の相手は清華じゃないとか! あまつ、それは金瓶梅の泡姫だったとか! 結婚三年目、会社の忘年会でノーパンしゃぶしゃぶ行ったとかっ!」
 歌うような口調で紡がれる言葉は、どれ一つとして致命的な話ばかり。いや、ちょっと情けないんじゃないのかな? とも思いつつも、男としては仕方のないとも思ったりして……ともかく、先ほどまで近寄りがたかった男性が急に身近に感じられるようになったことはだけ確実だ。
 ちなみに金瓶梅とは旧市街と再開発地区との境目辺りにある風俗店の名前。もちろん、良夜は行ったことはないが、行ったことのある奴は知り合いにいる……凄かったらしい。
「って、んなこと、言える訳ねーだろうがっ!! てめえ、俺にどういう爆弾を手渡しやがる!?」
 肩に突っ立っていた妖精を左手で引っぺがし、良夜は拳から首だけを出すアルトに怒鳴りつける。いつもの金髪危機一髪状態、しかし、彼女は平気の平左。にやにやと良夜の紅潮した顔を見上げ、ぺろっと舌を出して一言だけ言った。
「バーカ」
「良夜さん、私に言えない事って何ですか? 凄く気になります」
 良夜の言葉、声、態度、すべてが美月の好奇心をいたく刺激したことは、彼女に握りしめられた左腕が雄弁に語っていた。だって、爪が食い込んで来てんだもん。
「……あっ、浅間君? きっ君は……あっ、アルトに何を聞いたんだい?」
 そして、逆に拓也は良夜の言葉、声、態度から何かを察した様子。とたんに顔色を失わせると、ふるえる言葉を何とか紡ぎかねた。
 って……その質問にどうやって答えるべきなのだろうか? 良夜はともかく、視線を二人、そしてほかの人々全員からそらし、真夏の太陽が差し込む大きな窓とその向こう側に見えている緑まぶしい山へとそらしてつぶやいた。
「……はっ、墓の下まで持って行くべき事……かなぁ?」
 空調は十分に効いているはずなのに、良夜の額から汗がにじみ出し、それが一筋の尾を引きに頬へと流れ落ちた。
「良夜さん! 私は彼女です! 恋人の間に秘密があってはいけないんですよ!?」
「あっ浅間君!? 君は本当に何を聞いたんだっ!?」
 絶体絶命のピンチだった。美月は手を力一杯握りしめているし、拓也はその向こうで額からいやな汗をだらだらと流して良夜に迫り来る……てか、俺、この人をかばう義理はないよなぁ……と心の片隅では思うのだが、言っちゃったら、洒落ではすまないような気もする。
 そんなデッドエンドの状況に助け船は思わぬ所からやってきた。
 から〜ん
 喫茶アルトのドアベルの音がなれば、反射的に美月の顔はそちらへと向く。その美月の視線の動きにつられるように、良夜が視線を動かすと、そこには女友達を連れた同期の桜が立っていた。
「よっ! 浅間、帰ってたのか?」
「こんにちはっ! 暑いですねっ! 茹だっちゃうのでフラッペください! 練乳たっぷりでっ!」
 軽い調子の男とやけにテンションの高い女の二人組。顔見知りの二人は良夜とその背後にいる店員達へと声をかけると、がらがらのフロアの中、適当な一席に腰を下ろした。
「美月さん、お客さんですよ」
「うう……今、それどころじゃないのにぃ……」
 磨いていたパイプから視線をあげ、和明は穏やかな声で言う。美月はその声にわずかとは言えないレベルの迷いを見せるも、不承不承に席を立った。
「良夜さん、このお話は後で聞かせてもらいますからね! ――いらっしゃいませ〜」
 席を立つ美月にほっと一息、付く暇もなく良夜は拓也に半ば拉致られるようにして、アルトの事務室へと押し込まれていた。当然聞かれるのは、アルトが良夜に語った驚愕の事実。
「――……って事です。言えるはず、ないじゃないですか……」
「あっ……ああ……何で知ってるんだ」
 一通りの話を終えると、彼はガックリと肩を落とし、奈落の底にまで通じるようなため息をいくつも落とした。
「真雪に聞いたのと、私の入念なリサーチ。ふふふ……007に隠し事は出来ても私に隠し事は出来ないわ」
 彼女は胸を張って大いばり。そりゃ、姿が見えなきゃ尾行も覗きも盗聴もお手の物だろう。頭の上に座ってても世の中の人間の大部分は気づきようがないのだから。
 その言葉を良夜が伝えれば、二人は再び深いため息をついた。
「……浅間君、美月とつきあうとこれがおまけに付いてくるんだが……かまわないのかね?」
「……居なかったら……きっと美月さんとはつきあってませんから……」
「美月の事、よろしく頼むよ……」
「努力、します……」
 そう言って男同士のお話は終わり。引き続いて美月にどうごまかすかを話し合うと、二人は固く閉じていた倉庫兼事務所の扉を開いた。すると、そこには――
「ノーパンしゃぶしゃぶですかぁ……あなた」
 清華が立っていた。顔は笑っているのに、黒髪は興奮した猫のしっぽのようにふくらみ、その瞳は全く笑っちゃ居ない。
「結婚前の事をとやかくは言いませんけど……ノーパンしゃぶしゃぶですか……結婚後に?」
 そして、口調はやけに抑揚がなくて真っ平ら。それは美月の前で胸の話題を持ち出したときとほぼ同じ質のもだ。ただし、そこは年期が二十年ばかり違う。迫力のほどは彼女とは比べものになりゃしない。
「接待! 接待だから! ほら、バブルの頃は接待も大変だったからね?!」
 とっさに拓也がぺらぺらと言い訳を並べるも、彼女の穏やかに燃え広がる怒りを癒すにはほど遠い。彼女は真っ黒い瞳の奥に怒りの炎を隠しもせずに、良夜の隣に立つ男性をまっすぐに見据えた。それは隣で見ている良夜の背中にまで、冷たい何かを浮かべさせるだけの力を持つ。そして、彼女は抑揚の口調で言葉を紡いだ。
「……バッグが欲しい」
「買う、買うから、清華さん!」
 それに拓也はコクンコクと大きく頷けば、彼女はさらに言葉を続けた。
「……それからワンピースと補整下着のセットと冬になったらブーツとコート、それからウェッジウッドのティーセットとセイロンティの一級茶葉が欲しい」
「……あの、それ、全部買うとボーナスなくなりますが……」
「……それが駄目なら離婚届に判が欲しい」
「買います! 買わせていただきます!」
 かくして、三島拓也の冬のボーナスと彼がこつこつと貯めたへそくりはすべて清華の物欲を満たすために消費されることが決定した。

「良夜の三十年後」
「……ヤな事言うなよ……」
「あら、先は長いわよ? 知られたくない秘密の一つや二つや十個や二十個は出来るわよ、きっと」
 目の前で静かなる喧嘩を始めた夫妻と肩口でにやにやとそれを眺める妖精を見比べ、良夜は一つの事を決意した。
 人に恥じぬ生き方をしよう、と。

前の話   書庫   次の話

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