今年も夏物が始まります(2)
三島美月さんはやっぱり悩んでいた。着替えるべきか、着替えざるべきか? それが問題だったのだ。
で、取った行動は案の定というべきものだった。
「どっちが良いと思います? 長袖と開襟シャツ」
ここは喫茶アルトいつもの席、時は水曜の夕方。バイト前に軽く何かを食っていこうと思った良夜は美月に引っ捕らえられていた。捕まった彼の前には一着の開襟シャツ。彼女自身が着ている長袖と見比べさせられていた。
良夜の本心を言えば開襟シャツの一本だ。去年、連日三十度を超える猛暑の中、黒髪に長袖ベスト姿でウロウロしていた美月は見ているだけで暑気のしてくるような存在だった。しかも当人達は自分が暑いものだから店内のエアコンをガンガンに効かせる始末。ごく当たり前の格好をしていた良夜にとって、喫茶アルトのフロアは三十分もいれば震えてくるような場所になっていたのだからたまらない。噂によると去年のエアコンの設定温度は十八度だったらしい……そりゃ、真夏にホットコーヒーが売れるはずだ。
なのだが……
コツン、良夜の頭に小さな何かが投げつけられ、床に落ちる。それを頭の上に座っていたアルトが、拾い上げて読み上げる。さすれば、青年の顔からは一気に血の気が引いた。
「監視されている事を忘れるな……だって、陽の字よ」
チラリと背後に視線を巡らせれば、二つ向こうの席には女装青年と彼のぽっちゃり彼女の姿が見えた。彼は視線が合うとにっこりと微笑み、再びメモ帳にペンを走らせる。走らせる度に良夜の頭にはこつんこつんと紙がぶつけられた。アルトはそれを一つ一つ丁寧に取り上げては、美月に隠れながら解説していってゆく。
「演技指導を思い出せ」
「あたしは浅間くんを信じている」
「すすめるなら水着」
等など……挙げ句の果てには――
「しゃべるぞ……これ、脅しになるのは陽だけよね?」
アルトが楽しんでいるのか、それとも他人事だと思っている陽の文字が躍っているのかは判らないが、アルトは殺意を抱くような明るい口調で次々にメモ用紙を読み上げていった。そして、読み上げられている最中も美月は良夜に向かって「どっちが良いですか?」と尋ね続ける。青年は今「前門の虎後門の狼」と言う言葉の意味を理解していた。
否、今、青年を脅し始めたのは虎と狼だけではなかった。
「お待たせしました。チョコレートシフォンとアイスコーヒー、レアチーズケーキとアイスコーヒーのセットです」
慣れた手つきで貴美がケーキとコーヒーを並べてゆく。一応、美月も仕事中のはずだが、今は少し暇な時間なので休憩を取っているらしい。それは良いのだが問題はたった一つだけ。
貴美の美しい指先が動き、良夜の頭の上にそっと小さく丸めた紙を置く。そして、良夜の肩をポンと一つ叩いて消えれていく。その丸めた紙をアルトが開くとそこには――
「私がどっちに賭けた知ってるよね? って書いてるわ」
……どないしろって言うんだよ! 良夜は心の中で悲鳴を上げる。上げたところで助けてくれる誰かなど……あっ、居た。
「良夜さん?」
怪訝そうに良夜の顔を見つめる美月に、良夜は大きく深呼吸。そして、居住まいを正すと、おもむろにこう言った。
「俺、女性の服とか良く解りませんから、アルトに、聞いてたんですよ」
「きたなっ!?」
アルトに、の部分を強めのアクセントで言うと、アルトは良夜の頭の上で悲鳴を上げる。陽の方はともかく、これで貴美の方は一安心。全ての罪をアルトに引っ被らせばいいのだ。
「うーん、でも、アルトの趣味と私の趣味って合いませんから……良夜さんに決めて欲しいかな……ッて」
「何よ! 私の趣味が悪いって言うの?!」
「――と言ってます」
反射的にあるとは叫び声を上げる。その叫び声を通訳しながら、良夜は心の中でギュッと拳を握ってガッツポーズを作った。食い付きやがった、と。
「だって、アルト、変な服ばっかり着てるじゃないですか」
「変なってどういう意味よ!? 美月こそ、どこのお嬢様? みたいな服ばっかり着て、八十年代の漫画の読み過ぎよ! 生まれてなかった癖に」
「――と、言ってます」
お互いの服装を気に入っていない二人、その意見は全く集約する事はなく加熱していく一方。その言葉を第三者的立場で通訳しながら、良夜は内心ほくそ笑んだ。この調子であと三十分も言い合いが続けば、良夜のバイト前のひとときは終了するのだから。
と、よこしまな事を考えていたから罰が当ったのかも知れない。
「良いです! それじゃ、良夜さんに決めて貰いましょう!!」
「望むところだわっ! 良夜! 私と美月、どっちのセンスが良いのよっ!!」
二人の視線が一斉に良夜の顔面を睨み付ける。睨みつられながら、良夜は一言呟いた。
「……アレ?」
「んで、結局、どっちも普段着ている服が似合ってる、で片付けたわけ? 八方美人やねぇ」
翌日、遅い梅雨入りで六月も第一週が終わろうかというのに、空は雲一つない快晴が広がる。その下、大学へと続く道をぶらぶらと歩きながら、良夜は昨日の顛末をタカミーズに話していた。
「アルトと美月さんにも言われた……でも、そこん所は本心だぞ?」
呆れる貴美から視線を足下へと動かし、良夜はバリバリと頭を掻く。
真っ正面から『恋人だから私の味方ですよね!』と主張する美月、挙げ句の果てには『味方じゃないんでしたら敵ですか!?』と彼女は詰め寄る。それに対してアルトも『節穴を風穴に変えて上げましょうか?』とストローを目のすぐ前でフラフラさせる。この二人の間に挟まれて、八方美人にならずに済む方策を良夜は見つけ出す事が出来なかった。
「じゃぁ、直樹ならどうするんだよ?」
「なおは私の味方してくれるに決まってんじゃん?」
直樹が答える暇もあらばこそ。直樹の恋人、貴美はきっぱりと自信に満ちた表情で先に答える。その答えに良夜の足が止まった。
「刺されるんだぜ? あの馬鹿に」
良夜と貴美の間、挟まれるようにして歩いていた直樹に良夜は声を掛けた。直樹は声を掛けられると僅かに苦笑いを浮かべ、良夜の顔を見上げる。そして――
「まあ………………………………刺されるより酷い目に会いますから……」
彼は遠くの風景へと視線を向けて呟いた。その背中には哀愁が漂い、良夜は思わず彼の方をポンポンと叩いてしまった。
「そこ……肩じゃなくて頭」
高さと言い大きさと言い、直樹の頭はなで心地抜群。しかし、そこを撫でると直樹は一気に不機嫌になる。もっともなったところで、直樹の身長と力では良夜の手の内から逃げる事はかなわず。良夜も悪い悪いと笑いながら、何回もそこをなで続けた。
「その頭は私んだからね。撫で回すんなら、金取んよ?」
「良いじゃねえか、なで心地の良い頭は人類の共有財産だぜ?」
「しょうがないな、半分だよ?」
二人で交互に頭を撫で回すと、さらに直樹の不機嫌は加速、彼の少年のような顔を脹れさせる。だが、良夜一人からも逃げられないというのに、そこへ貴美が絡めば逃げられるはずもない。じたばたと足掻きながらも、小柄な青年はキャンパス間近になるまで頭を撫でられ続けていた。
「まっ、りょーやんに頼った私が馬鹿だったって訳なんよ。やっぱ、勝負は自分で動かなきゃね」
ぽーんと直樹の頭を一発はたき、貴美はグッと大きく背伸びをする。
「動くって何するんだよ……」
「変な事でしょ?」
ぽか! 良夜の疑問に直樹が即答。即答した頭を貴美が速攻で小突く。
「勝負って言うものは、理を持って策を配し、勝つべくして勝つもんなんよ。見てなって。勝ったら二人にもおごっから」
キャンパスをアルトの開襟シャツで練り歩く貴美を見つめ、直樹と良夜はお互いの顔を見合わせた。お互いに言い合った。
「とばっちり……覚悟しておきましょうね」
「そうだな……」
キャンパスへと一足先に貴美が消えてゆくのを見守り、二人は静かに溜息を漏らした。
吉田貴美は半ば陽に煽られるようにして『着替えない』に大枚五千円と小銭少々を財布ごとかけた。しかし、煽られたと言っても運否天賦に掛けて大枚を払ったわけではない。煽られながらもその茶髪の内側には冷徹な計算と計画があった。その計算と計画とは――
今日、貴美が「理を持って策を配する」と宣言した日、ランチメニューはミートソースパスタだった。当然、大きな寸胴ではお湯が沸騰し、換気扇の努力も実を結ばないほど。美月の額にも大粒の汗が光り、彼女は暑い暑いと言いながらパスタをゆで続けていた。
「美月さん、キッチン、暑いね」
「あっ、パスタの追加分、今、茹で上がり……――」
キッチンへとやって来た貴美を前に美月の表情がピンッ! と固まった。彼女の視線は貴美の深い胸元、開襟シャツの第一ボタンが外れ、普段以上に谷間を強調される胸元へと固定される。
「吉田さん? 服、ちゃんと着てください」
コホンと小さな咳払いをし、美月は自分の――未だ冬服のままで立ち腐れている胸元へと手をやる。
「キッチン、暑いんだから仕方ないじゃん?」
「……だったらキッチンに来なきゃ良いのに……」
良いのに……とは言っても来ないで仕事が終わるはずもない。この店はコーヒーを煎れる仕事しかしない老店長以外には彼女たち二人のウェイトレスしか居ないのだから。結局、美月は貴美がキッチンでの仕事を済ませている間中、決して自分には生まれないであろう場所へとチラチラと視線を向けながら、自分の貧相な胸元に溜息をつき続けるのだった。
こんな日々が四−五日続いた。美月が見ると貴美の胸元は必要以上に大きく開き、ブラこそ見えては居ないがそれでも白い胸元はまる見えという状態。ついに彼女は「これではいけない!」と一つの行動に出た。
吉田貴美が妙な事を始めると一番にとばっちりを食う男が居た。それは自他共に認める吉田貴美の恋人、高見直樹青年だ。
「最近、考え直そうかと思ってるんですけどね……付き合い方」
そんな言い訳も無言の煽りを与え続けられている美月には通用しない。彼女は土曜日、半袖ではあるが胸元はぴちっと閉じているワンピース姿で直樹の前にどーんと座ってた。
「直樹君、良いですか? 私は吉田さんが憎くて言っているわけではありませんし、私があの胸元を見てムカッとしているから言っているわけでもありません。知っていますか?」
「はぁ……」
自作のワッフルを食べながらまくし立てる美月に、直樹は曖昧な返事を返した。しかし、それは美月の怒りに油を注いだだけ。
がんっ!
「ちゃんと聞いてください!!」
美月の手がテーブルを叩き、テーブルの上に鎮座していたグラスが小さなダンスを踊る。その勢いに直樹の背筋もピンと伸びた。それを確認し、美月はコホンと取り繕うような咳払いを一つ二つとした後、話を続ける。
「良いですか? これは喫茶アルト風紀の問題です。当店は美味しいコーヒーと美味しい軽食で勝負するまっとうな喫茶店なんです」
「去年……吉田さんが水着でウロウロしてたような……」
「聞いてください!」
がんっ! 再びテーブルに拳が叩きつけられ、さらにグラスから水が滴る。直樹はそれに視線を向けながら、良夜の言葉を思い出していた。
『美月さんが語り始めたら余計な口出しはしちゃ駄目』
これが良夜の言う『キレ美月』か……と内心愚痴る。愚痴っている間も美月の怒りはヒートアップする一方だった。
「良いですかっ! 直樹君!! 直樹君だって、吉田さんの胸元を良夜さんや他のお客さんには見られたくないはずです! 良いんですか? 良夜さんに吉田さんの胸を見られても!!!」
息継ぎすら忘れ、美月は一気にまくし立てる。その勢いに直樹は恐縮するだけ。そして、彼女は飲んでもいないのに半分ほどに減ったグラスへと手を伸ばした。グラスの水が白い喉へと流れ落ちてゆく。最後の一滴が美月の唇に消えた時、直樹はおずおずと小さな声を上げた。
「……でも、吉田さん、フロアに出てくる時は一番上、ちゃんと止めてますよ?」
「はい?」
きょとん、手に持ったグラスをテーブルに置く事も忘れ、美月はじっと直樹の顔を見つめる。
「ですから……フロアにいる時はちゃんとシャツのボタン、止めてるんです……」
「それじゃなんですか!? 吉田さんはキッチンに帰ってくる度、毎度毎度、シャツのボタンを外してるって言うんですか?! なんですか!? それはいったい!!! 吉田さんは私を虐めて喜んでるだけなんですかっ!!!!」
「……そっ、そう言うわけでもないと思いますけど……」
そのあまりにもすさまじい勢いに直樹は気圧されながら、もう一度良夜の言葉を思い出すのだった。
『キレ美月に口答え禁物』
要するに貴美は、キッチンにはいる時は胸元のボタンを外し、出る時にはしめるという行動を繰り返していたのだ。これが彼女の計画だった。すなわち、去年以上に彼我の戦力差を意識させ、勝負に打ってこなくさせる。こうすれば、ペッタンコな胸にコンプレックスを持つ美月は決して開襟シャツに着替える事はないだろう、そんな目論見だ。
まあ、今日の様子から見れば少なくとも貴美がブラウスのボタンを外してウロウロしているうちは、衣替えをする事もないだろうと直樹は思う。今のところは目論見は成功していると言えるだろう。しかし……
「おかげでずーっと愚痴られたんですよ? お願いしますから、三島さんを煽るの、止めてくれませんか?」
とばっちりでずーっと愚痴に付き合わされていた直樹には良い迷惑だ。良夜もアルトには顔を出してこなかったし……その日、本屋でのアルバイトからの帰還後、直樹は遅い夕食を口にしながら昼間にあった話を持ち出していた。
「ありゃ、大変やったねぇ〜」
よく炒めた冷やご飯に余り物のミートソースで味付けをしたチキンライスもどきと豚肉のソテー、それが今夜の晩ご飯。それをスプーンですくいながら、貴美は平然と答える。その口調はまんま他人事、まるで直樹のバイト先であった話でも聞いているかのようだった。
「全然助けにも来てくれないんですから……誰の所為だと思ってます?」
「色々と忙しいんよ、こっちもバイト中なんやから」
「嘘だ……面倒くさいから来なかったに決まってる」
「ともかく、今月一杯、六月末まで着替えなきゃひとまず勝ちなんだから、それまで我慢しとき」
直樹は食事の手を止めて「はぁ?」と首をかしげた。
「だから、ひとまず六月末で勝負を決めて、着替えなかったら七月場所に突入。着替えるまで同じ事をやり続けんのよ」
「……ばっ、場合によっては十月まで続ける気なんですかっ!?」
「んにゃ、七月になったら私が長袖に戻して美月さんを開襟シャツに誘導する。六月に着替えなかったら七月も『着替えない』に賭けるメンツが増えるだろうから、『着替える』の掛け率がアップするじゃん? んで、それを私が頂く、バッチりっしょ?」
パクパクとスプーンを口に運び、貴美は食事の手をゆるめる事はない。それに反して、直樹の方はあんぐりと口を開き、スプーンをチキンライスに突っ込んだままで固まっていた。
「なに? 私の素晴らしいプランに驚いた?」
「……はあ、取らぬ狸の皮算用って言葉、知ってます?」
あきれ顔で直樹は言う。しかし、貴美は食べ終わった皿の前で手を合わしながら、答えるのだった。
「知らんよ」
そう言って貴美は使い終わった食器をシンクへと運ぶ。その後ろ姿を見つめ、直樹は心の中で呟いた。
「理を持って策を配して……ギャンブルで勝った事ない癖に……」
直樹は洗い物をする恋人の背中を見つめていた。どうせ、来月になったら晩ご飯が貧相になるんだろうな……と思いながら。