戯言123 ------------------------------------------------------------------ この物語はフィクションであり、実在する団体、人物とは関係ない ------------------------------------------------------------------ 「考え中」 123で思い出すのはLotus-123である。最近は見かけない。 風の便りでは最近までサポートがったようで 今は本当にサポート終了のようである。 とある歌 123・123・1・2・3 サンサンサン太陽がサンサン 面白いは「可笑しい」「興味深い」? どちらの意味で使っているか ガリレオの湯川先生は「興味深い」という意味で使っている 「実に面白い」と言って相手を怒らせてしまうエピソードがある しかし、ほとんどの人は「可笑しい」という意味で使っている。 そういう意味ではTVは「可笑しい」というより「おかしい」と いったほうが良い。 TV:舞台と楽屋 舞台演劇 壇上の人は会場の人に対して話したり芸を見せている これをTVで中継しても違和感がない。演奏も同じでる。 TVを見ている人は会場の人と同じ気分、感動を得る。 視聴者や聞いている人が自分の頭の中で想像しながら楽しむ そんな感じがする。他人がやっているが自分のことのように 考えてしまう。「興味深い」「感心」「ためになる」「教訓」 というキーワードが連想される。 今のお笑いTV番組 芸をする人見る人が同じ壇上にいて横を向いて話している。 客席に向かってではなく舞台にいる人同士の会話になっている。 言うなれば楽屋のような感じである。少し観客がいるが意味はない。 内輪ネタや楽屋で話す内容をそのままスタジオで話している そして楽屋という閉鎖された空間の雰囲気が画面の中で完結している。 TVで楽屋の状況を放送しているような感じで見ているほうは ある種の疎外感を受ける。視聴者はおいてきぼりな感じ。 今まで隠しておかなければならない舞台裏を公開してしまった。 リハーサルと本番の区別が付かなくなっていてだらだらに見える。 見ている方はどこかで起きている変なことを他人事のように楽しん でいる。これはなんか変な感じである。「楽屋中継」 すくなくとも「興味深い」「ためになる」とは思わない この元を作ったのは1980年代のfuji-tvのようである。 ただ「わらっていいとも」は微妙な感じである。ゲストと司会者の巧妙 なやりとりなので対談番組にも見える。 (それ以外のコーナーはさらに微妙)。 この手の番組がもてはやされているということは、いろいろな出来事を 他人事、第3者のようにしか考えられなくなっている人たちが増えてき ているということであろうか。 何かを見て自分のこととしてとらえることはもうできなくなってきてい る風潮がある。今までに無い妙な事件が起こるのはこんなところにも 原因があるのかもしれない。 映像と音 アナログ時代はFMラジオでTVの音声を聞くことができた。 なにが楽しいの?と思うかもしれないが結構不思議な発見がある TV番組を音だけで聞いてみると,音楽番組とニュース、落語 以外はなんだか変な感じになる。 ワイドショーはまるでラジオ討論のような感じにも聞こえる 今のお笑い番組はまさにラジオである。 不思議なことにCMは意味不明なものと理解できるものに分かれている 逆に音を消してみるともっと興味深い 映画やアニメーションは動画が主体で音は後付けのようで、音が無くて もなんとなくわかる。CMもなんとなくわかる。 このジャンルは映像が主役なようである、かっこいいプロモーション 映像や、やたら人数が多く踊っているグループの歌いろいろな発見がある。 映像だけを見ると最近の傾向は画面の切替わりが激しいことである。 スームイン・ズームアウトという方法は少なくってきている。 編集を前提とした制作方法。 機材の進歩で編集が簡単になったので現場でカット割りやカメラワーク の施行錯誤をするより沢山のカメラで同時に撮って後で繋ぎ合わせるほう が楽なのかもしれない。 新聞 宅配システム・定期購読、それなりに安定?、先細り? 情報の新鮮さではインターネット、TV、ラジオなどに負ける 出来事のまとめ、アーカイブという位置づけなのか 「新聞の書くことだから」と言っている人が思っている意味 [信頼できる][あてにならない]どちらであろうか。 新聞社や時代にもよって変わると思うが。 だんだん後者になってきている感じがする。 緻密な取材で本質を突いた記事は確かに存在する。 しかし1面を飾る記事に関してはTVの後追いが多い。 1面に出た記事の関連記事はたいてい2面と最後の方に書かれる 1面はニュース的な要素が多い、2面は政治的な側面や技術的な側面 最後のほうに書かれるのは当事者に関する事柄であることが多い。 新聞記事には定型的なテンプレートやパターンがありそれに当てはめ ているように感じる。3面記事に掲載される記事にはそんな印象がある インターネットではこのような記事の分断はなく1個の記事 にまとまっていて新聞の形式にこだわっていない感がある。 新しいメディアは新しい形式を持っている。このことが新しい人を引き つけるようである。新聞やTV、ラジオは今や中身で勝負の時代になっ てきていると感じる。 おまけ 寺田寅彦 「ルクレチウスと科学 昭和4年」 の一節 ---------------------------------------------------------------- 私は昔ある場所の入学試験問題として、音波と光波の見かけ上の解説の 差を照明することを求めたが、正解らしい要点にふれたのはまれであっ た。多くの学生は教科書に書いていない眼前の問題はあまり考えていな いものと思われる。 そして教わったものなら、どんな面倒な数式でも暗記していて、所問に 当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。 二千年前のルクレチウスのほうが良き科学者であるのか、今の教育方針 が悪いのか、これも問題である。 ----------------------------------------------------------------- 前半の「眼前の問題」とはルクレチウスが指摘した 音は放射であるが「像」のようなものは考えられておらず 「光は影を作るが音は影を作らない」ことらしい。 後半の記述は今もそのとおりである。 もう一節 ----------------------------------------------------------------- 科学の高塔はいまだかつて完成したことがないバベルの塔である。 これでもうだいぶできあがったと思うと、実はできあがっていないという 証拠が足下から発見される。<中略> しかし、すべての時代の学者はその完成を近き将来に夢見て来た。 現在がそうであり、未来もおそらくそうであろう。 ----------------------------------------------------------------- 昭和4年にかかれた随筆である。 いたるところに本質ともいえる事柄が書いてあり不思議な文章である。